死に直面した心情が、もろいガラス細工のような言葉で絞り出される
[レビュアー] 角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家)
山を登り、愛し、山に囚われた表現者たちによる十三篇のアンソロジー。作家らによる高山植物や山岳信仰に関するちょっとのどかな山行紀からはじまり、つぎに夜の山道や不意に遭遇した山火事など不穏な感じの紀行がつづき、最後は命をけずって登攀にいどんだ先鋭登山家の極限の記録でむすばれる。〈章が進むにつれ、舞台となる山の標高や厳しさが増していく〉と編者が語るように、本書自体が麓から頂上へとむかう登山そのものだ。山の魅力と不思議を三百六十度見わたすことのできる構成となっている。
クライマックスはやはりヒマラヤや単独登攀に挑んだ終盤の文章か。ここに登場するのは六人のうち四人までもが山で命を落とした登山家だ。希薄な酸素、雪崩、墜落の恐怖。天国に近い場所に身を置き、死の間際で生をつかみとろうとする彼らの姿には神と悪魔が同居する。とりわけ二十五歳で墜死した中嶋正宏の遺稿は、死に直面した山に向かわずにいられない呪われた心情が、もろいガラス細工のような言葉で絞り出されており胸をうつ。遭難したシェルパに限りないやさしさを見せた加藤慶信もクーラカンリで死んでしまった。
登山家には名文家が多いが、その秘密がすこし分かった気がした。山という非日常的な環境で思いもよらぬ発見と経験に身をさらしていると、人はどうしてもそれを言葉で表現したくなる。それも正確に。なぜなら文章を記し、言葉で表現することだけが、自らの経験を、すなわち自らの存在を、この世にのこす唯一の手段だからである。この衝動は本能的なもので、おそらく生物学的な原理に適っているのだろう。だから彼らの言葉は研ぎ澄まされている。
登るのも人の業だし、伝えるのも人の業。登山家とは人間存在の極限的な事例であり、生き方そのものが芸術なのかもしれない。長年、多くの登山家に伴走してきた編者による人物解説も読ませる。