『君の六月は凍る』
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標準装備の絶望を死に損なわせる、希望
[レビュアー] 児玉雨子(作家、作詞家)
すっかり人口に膾炙した「自己肯定感」という言葉だが、それはどこか私の世界の外側の語彙だと感じている。自分の存在を肯定できる/できないの問題ではなく、死ぬまで自分という存在でいなくてはならないという事実が、途方もなく続く苦痛なのだ。
本書は表題作と、帯文で「半私小説的」と紹介された「ベイビー、イッツ・お東京さま」を収録している。二作には名前をはじめとした、出生前に選択できないもの(セクシュアリティ、身体的特徴、家庭など)が主題として通底している。
「君の六月は凍る」は、登場人物たちの名前を明かさないまま、三十年前の「君」と「わたし」の日々が物語られる。名前だけでなく、「わたし」、「君」、そしてそれぞれの「きょうだい」である「B」と「Z」と、登場人物の具体的な年齢やセクシュアリティも覆われている――「覆われている」と感じるのは、読者という神の視座から生まれる傲慢だろう。それらがつまびらかにならなくても、物語は成立するということをこの作品は証明している。
クラスで存在感を消していた「わたし」は、周囲から疎ましがられていた「君」に興味を持って接近してゆく。「わたし」は学校では毅然と存在していた「君」が、きょうだいのZの前では安心しきっていたり、自分より弱い存在を慈しんでいたりするようすに、疎外感のようなものを感じて激しく憤り「君」の世界に侵入しようとする。
「ベイビー、イッツ・お東京さま」の主人公大滝喜楽理は、派遣の警備員アルバイトをしながら、チェス納豆というハンドルネームで好きなコンテンツの二次創作小説やブログを書いて暮らしている。大滝の現実については、経済格差、性差別や性暴力が克明に描かれ、大滝自身はその構造に気づいていながら「人生標準装備」の苦しみと認識している。二次創作活動はそんな現実に対する麻酔のようなものであり、大滝の生きる糧そのものであった。そんな毎日に、豚ローズという大手サークル絵師から連絡が来る。ふたりはオフ会で意気投合し、現実と二次創作活動の世界の境が融け合い、大滝の人生に希望が見えそう、と読み手は期待してページを捲ると、ふたりの間にきらきらと飛び交った言葉のすべてを、現実がブルドーザーのように念入りに踏み潰す。何者でもない、ただの「わたし」であろうなんて絶対にゆるさない、と言わんばかりに。
ノンバイナリーな表題作とは対照的に、本作は固有名詞が多数登場する。ただの「わたし」ではなく、女性であり、同性愛者であり、チェス納豆であり、大滝喜楽理であるがゆえに標準装備された絶望を、読者の前に高解像度で提出する。
死ぬことに失敗し続けているから生きているような人間に、「私もいるよ、一緒にがんばろう」と言って抱きしめてくれるような作品ではない。むしろ共感や理解を拒む作品かもしれない。しかし本書が存在するだけで、明日も死に損なう人間が、少なくともここにひとりはいる。そしてそれは希望とよく似ている。