小説『しあわせガレット』の執筆秘話 作家・中島久枝が語る

エッセイ

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しあわせガレット

『しあわせガレット』

著者
中島 久枝 [著]
出版社
角川春樹事務所
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784758414487
発売日
2023/08/07
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

小特集 中島久枝

[レビュアー] 中島久枝(フードライター、小説)

 東京の下町風情が残る「谷根千」地区にあるガレットとクレープのお店を舞台にした小説『しあわせガレット』が刊行された。フードライターとしての顔も持つ作家の中島久枝が描いた本作の執筆秘話を語る。

 ***

 二〇一四年にデビュー以来、食をテーマに時代小説のシリーズをいくつか書かせていただいています。 「十周年を迎える前に、なにか新しいことにチャレンジしてみたいなぁ。現代ものとか」と担当編集者のH氏につぶやいたら、角川社長に伝わり、「だったら、ガレットはどう? まだ、だれもガレットをテーマにした話を書いていないから」と言われ、お気に入りのガレットの店に誘ってくださいました。

角川社長、H氏、私の三人で向かうとその日は定休日。日を改めると、今度は臨時休業。かれこれあって四度目にしてやっと、行列のできる店の行列に並ぶことができました。

──これは、先が思いやられる。

 私の心配どおり、それからプロットは二転三転し、迷走することになります。

 その日食べた軽やかで滋味深いそば粉のガレット、ふんわりとしたクレープの味もさることながら、印象に残ったのは小柄できりりとしたマダムの姿でした。

「うちはシェアはお勧めしません。取り皿も出しません」

 きっぱりとした言い方でした。かっこいいんです。

 ようやく物語が進み始めたのは、それから一年を過ぎ、国立西洋美術館で開催されていた『憧憬の地ブルターニュ』でポール・ゴーガン(ゴーギャン)の『海辺に立つブルターニュの少女たち』という作品を見たときです。二人の少女は頭巾のような帽子をかぶり、裸足で服にも土がついているようです。「なんで、あたしたち?」と言いたげな上目遣いでこちらを見ています。

──そうか。これは、どこにいても居心地悪く感じてしまう人の話なんだ。

 私はそのとき、ようやく物語の中心にたどりついた気がしました。

 そして同時に思い浮かんだのが、赤い髪の強い眼をした女性でした。

「私はあなたのためにガレットを焼くから。あなたも、なにが食べたいのか自分で考えて」

 ブルターニュは海に突き出た半島でかつては独立国でした。独特の文化、歴史、言語を持ち、美しい風景はゴーギャンはじめ多くの芸術家を魅了しました。

 そのブルターニュがガレットのふるさとです。

 冷涼な気候はそば栽培に適し、フルール・ド・セル(塩の花)と呼ばれる極上の海塩やバターなどの乳製品、さらに海産物など食材の宝庫でもあります。

 楽しい常連さんがいて、楽しくておいしくて、つい足が向いてしまう店が谷根千の一角にひっそりと開店しました。

 今まで私は自分の道を切り拓き、夢をかなえる人を多く描いてきました。それは時代小説という枠組みの中だからできることのようにも感じています。

 現実の世界はもっと厳しく、自分ではどうにもならないことにぶつかり、「こんなはずではなかった」といら立ち、夢をあきらめたり、方向転換することも多いと思います。

 私は昭和の生まれです。

 明日は今日よりよくなる、科学は人類を幸せにするとみんなが無邪気に信じていた時代に育ち、夢中で働き、酒を飲み、こんな浮かれた世の中、いつまでも続くはずはないと心のどこかで怯えていたバブルを経て、その後の苦さを味わいながら年を取りました。

 時代は移り、常識も変化するのだというのが実感です。

 思うにまかせない世の中ですが、きっとどこかに、あなたのために一皿のガレットを焼く人がいる。だから、自分のために、自分らしさを貫いてほしい。そう思って、この物語を書きました。

【著者紹介】
中島久枝(なかしま・ひさえ)
東京都生まれ。フードライターとして活躍し、讀賣新聞勇敢にて「甘味主義」を連載中。著作に『金メダルのケーキ』「湯島天神坂 お宿如月庵へようこそ」「日本橋牡丹堂 菓子ばなし」「一膳めし屋丸九」シリーズなど。

角川春樹事務所 ランティエ
2023年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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