『ヴェネツィアに死す』
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ほんの少し補整しただけです
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「化粧」です
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学生のころルキーノ・ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』を見て強烈な印象を受けた。ビョルン・アンドレセン演じるタジオの生きた芸術品と言いたくなるような美少年ぶりには目を見張った。それ以上に、彼に恋焦がれる主人公、大作曲家アシェンバッハの愚かしくも哀れな取り乱しぶりに驚かされた。
とりわけ終盤、タジオに気に入られたいという思いに駆られ、アシェンバッハが床屋で若作りを試みるあたりは何とも気の毒だった。そんなことをしたって老醜が際立つばかりに決まっているではないか。
トーマス・マンの原作『ヴェネツィアに死す』(岸美光訳)では、主人公は文豪。理髪師が口達者な男で、「美顔術」への偏見を戒め、アシェンバッハの切ない思いを見透かすかのように灰色の髪を染めてやり、顔にあれこれメイクまで施す。わくわくしながら鏡を見つめるうち、老作家は自分が「花咲く若者」になったような気分になる。それに対する理髪師の言葉が怖い。
「ほんの少し補整しただけです」
いやいや、どうしたって映画で主人公を演じたダーク・ボガードのグロテスクな変貌を思い出してしまう。それが浜辺の太陽にさらされ、汗まみれになった顔に白髪染の染料が垂れてくる様子がむごたらしかった。だが小説はその点を強調しない。むしろ美とエロスの理想に殉じるための死支度とも思える。執筆時36歳のマンは透徹した目でそんな境地を見据えていた。