必死の詐欺師 井上ひさし――沢木耕太郎『作家との遭遇 全作家論』試し読み

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ファン必読、著者初の作家論集『作家との遭遇 全作家論』が11月30日に発売されました。山本周五郎、高峰秀子、小林秀雄、向田邦子、檀一雄、カポーティ――。23名との「出会い」を通じて沢木耕太郎の世界にも酔いしれる贅沢な一冊には、22歳の時の卒論「アルベール・カミュの世界」も初収録されています。
その中から、井上ひさしについて論じた「必死の詐欺師」を限定特別公開します。

  1

 ある時、私は出版社内の小部屋で原稿を書いていた。締切りに追われ、執筆のための用具一式をバッグにつめ、家を出てきていたのだ。
 小部屋といっても、その言葉から想像されるような旅館風の落ち着いた空間といった気のきいたものではない。編集部の横にある作業場とでもいうべき雑然たる部屋だった。資料の古雑誌や反古の紙が散乱し、ノリやハサミやモノサシが転がっている。そんな中で昼も夜もなく遅々として進まぬ原稿を書きつづけていると、もうどうにでもなれといった捨鉢な気分になってくる。
 その日も、午前零時をすぎてひとり白い原稿用紙に向かっているうちに、やがて地球が破滅するものならいますぐそれをしてもらおうではないか、といった暗く陰鬱な気分になってきた。その時である。
「やってますなあ」
 のんびりした声が聞こえてきた。ドアを少し開け、セーター姿の男性が首だけ出してのぞきこんでいる。一面識もない相手だったが、妙になつかしい相手のように思われ、
「ええ、やっとります」
 と調子よく答えた。答えて、しばらくしてその人が井上ひさしであることに気がついた。井上さんも向いの小部屋で原稿を書いていたのだ。
 そこで殆どそのままの姿勢で僅かな時間だが雑談をした。内容はすっかり忘れてしまったが、話をしているうちに気分が次第によくなっていったことだけはよく覚えている。安らかになった。ひとつには、この深夜に自分と同じように悪戦苦闘している人物が少なくともひとりはいるということに慰められるものを感じたからだろう。だが、心が安まるように思えたのはそれだけが理由ではない。井上さんの声そのものに、私を安心させる何かが含まれていたのだ。
「どちらが早く終わるか競争でもするとしますか」
 どちらからともなくそういうことになったが、井上さんが自分の部屋に戻っていったあと、なぜか私の原稿執筆は快調に進行し、それから数時間後にはすっかり書きあがってしまったのである。意気揚々と井上さんの部屋のドアを開け、首だけ突込んで、私は挨拶をした。
「それでは、お先に失礼します」
 すると、井上さんはこちらが狼狽してしまうほど心細そうな声で、
「もうお帰りになりますか……」
 と言うのである。瞬間、私はひどく悪いことをしているような気がして、井上さんが書き終わるまで、もう一度自分の部屋に戻り鉛筆を削ったり清書をしたりして時間を過ごさなくてはいけないのではないか、となかば真剣に悩んだものだった。そしてこの時、やはり、と思ったものである。やはり、井上ひさしの第二の天職は詐欺師であるにちがいない、と。

新潮社
2018年12月5日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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