『天下取』
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結婚する理由
[レビュアー] 村木嵐
戦国時代、天下に最も近いと言われた武田信玄は、実にたくさんの身内を不幸にした。父親は追放、長男は切腹。長女は離婚し、妹は夫を謀殺された。なかでも夫・北条氏政との仲を引き裂かれ、四男二女を置いて甲斐(かい)へ戻らされた長女は、その後すぐ病死してしまっただけに痛ましい。
いくさをしなければ生き残るのが難しかった時代に、内陸の山あいの甲斐は、信玄という稀有な武将がいたおかげで繁栄した。当時の人は家臣から他国の一農夫にいたるまで、そのことだけは共通認識として持っていたようだ。
その信玄が今川義元、北条氏康と結んだ甲相駿(こうそうすん)三国同盟は、いくさを避けるのに絶妙なトライアングルをなしていた。信玄たちはそれぞれ正室とのあいだに嫡男(ちゃくなん)と姫がおり、子供を前に並べて隣どうし手をつながせると、年格好も力関係も似たきれいな六角形ができる。
あとは三組の夫婦次第だが、どこも奇跡のように仲睦まじかったらしい。真実は分からないが、同盟を守るために六人が六人とも、自分のできることを積極的に果たそうとしたことが窺える。
だがこのトライアングルは桶狭間(おけはざま)の戦いで義元が討たれてから傾いていく。親きょうだいも合わせると十組を超す夫婦が、気の遠くなるような努力で積み上げてきたものに一瞬で風穴を開けた織田信長は、やはり凄まじい人だった。
信玄や信長が道半ばで倒れ、北条が小田原征伐で滅び、今川は凋落(ちょうらく)した。それでも義元の嫡男と氏康の姫だけは、最後まで握り合った手を離さなかった。それが現代の目からは強くも美しくも見えるし、哀しさを際立たせてもいる。
戦国の母と子を書こうとしたら、信玄の周りだけでさまざまな結婚、夫婦があった。今の感覚で捉えるのが高慢だということを抜きにすれば、可哀想なだけという女性は一人もいなかった。