5月26日発売の「ENGINE」(7・8月合併号)に、作家・村上春樹による特別書き下ろしエッセイが掲載された。
エッセイでは、特集「わが人生のクルマのクルマ」のテーマに合わせて、これまでに海外で乗ったレンタカーをめぐる悲喜こもごもの思い出が綴られている。タイトルは「レンタカー、良くも悪くも」。駐車スペースから消えた日産マーチ、ホテルにパスポートと現金を忘れたときに乗っていたサーブ93など、車を軸にプライベートな一面が明かされた貴重なエッセイとなっている。
そのほか、今号では、著名人、モータージャーナリストなど67名が寄せた、これまで出会ったクルマの中でもっとも印象に残ってる1台を紹介。新型コロナ問題で緊急事態宣言が発令され、先が見えない今こそ、改めてクルマとともに過ごしてきた来し方を振り返り、クルマが人生にもたらしてくれたものついて考え、暗く沈みがちな気持ちを明るくしようと企画された特集となっている。
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村上春樹「レンタカー、良くも悪くも」を一部掲載。
僕個人はこの三十年くらいずっと、オープン2シーターを乗り継いでいる。左ハンドルのマニュアル・シフトで。それ以外にSUVかステーションワゴンを使っている。こちらは他の人も運転するので、右ハンドルのオートマチック。そんなわけで、普通のセダンを所有したことはほとんどないのだが、海外の旅行が多く、よくレンタカーを利用するし、その大半はセダンだ。だから実際にはけっこういろんな車種のセダン(多くはいわゆる「大衆車」)に乗ってきたことになる。
レンタカーに関してはたくさんの思い出がある。自分で所有していた車よりも、思い出の数はむしろこちらの方が多いかもしれない。良くも悪くも。
僕がこれまで借りたレンタカーで最悪だったのは、1980年代後半に、ギリシャのアテネで借りた日産マーチだった。現地の呼び名はたしか「マイクラ」だったか……。日産マーチのことを悪く言うつもりはない。しかし僕がそのとき借りたマーチ(マニュアル・シフト)は慢性的整備不良と、おそらく酷使されすぎたせいだろう、まさに極悪の状態だった。まずパーキング・ブレーキがほとんどきかない。車を駐車して用事を済ませて戻ってきたら、車の姿が見えない。真っ青になって探したら、斜面の下まで転がっていって止まっていた。幸いなことにぶつかったのが金網だったので、車に傷はなかった。仕方ないから、それ以来車を駐めるときには、石か何かでタイヤを固定させることにした。
それからエンジンがゆるゆるでぜんぜんパワーが出ない。その車でアテネからペロポネソス半島の先まで行ったのだけど、スパルタの手前の山越えの道がどうしても登れない。いくらギヤを落として、アクセルを床まで踏み込んでも、車がさっぱり前に行かないのだ。後ろからはぶうぶう文句を言われるし、砂利で滑って崖から落ちそうになるし、運転している方は冷汗三斗だった。なんとか山は越えられたけど。
何年かあとで「スパルタスロン」というウルトラ・マラソンを走らないかと知人に誘われた。アテネからスパルタまで二日がかりで走るレースだけど、あの坂道を思い出しただけでとても参加する気にはなれなかった。車でだってちゃんと登れなかったのに……。
でも日産の名誉のために言っておけば、アイルランドを回ったときに借りたサニーのマニュアル・シフトは、とてもきびきびしていて愉しかった。しかしアイルランドのドライバーって、みんな山道をがんがん飛ばすんだよね。しょっちゅう後ろからあおられていた記憶がある。僕も山道を飛ばすのは決して嫌いじゃないんだけど。
これまでに借りたレンタカーで、いちばん出来が良くて感心したのは、ストックホルムで借りたサーブ93(だったと思う)。ほとんど新車に近い美しい車だった。それでストックホルムからコペンハーゲンまで移動したのだけど、マニュアル・シフトが実に小気味が良く、かちかちと軽快に決まり、「いつまでも運転していたいな」と思うほどだった。しかしデンマークに入る手前でホテルにパスポートと、現金(ノルウェイでもらった講演のギャラ)を入れた封筒を忘れてきたことにはっと気づき、ストックホルムまで一日がかりで取りに戻らなくてはならなかった。「いつまでも運転していたいな」なんて余計なことを思ったせいかもしれない。
日本に帰ってからそのことをどこかに書いたら、日本のある部品メーカーに勤める人から「そのマニュアル・シフトを制作しているのはうちの会社です」という手紙をいただいた。そうか、あの素敵なマニュアル・シフトは日本製だったんだ。
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続きは現在発売中の「ENGINE」(7・8月合併号)にてお楽しみください。
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2020年5月30日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです
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