温泉宿で出会った怪しい魅力の“株屋さん”……乱歩節炸裂の傑作!――江戸川乱歩『江戸川乱歩名作選』試し読み

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後世に語り継がれる「陰獣」、藤田新策氏による絵本も刊行された「押絵と旅する男」、無残に顔を潰された死体の謎に迫る「石榴(ざくろ)」など、乱歩の魔術的魅力に満ちた全7編の『江戸川乱歩名作選』(新潮文庫)。怪奇と幻想、そして本格ミステリの最高峰をぜひご堪能ください。

本書より、「石榴(ざくろ)」の冒頭部分を公開いたします。

***

私は以前から「犯罪捜査録」という手記を書き溜めていて、それには、私の長い探偵生活中に取り扱った目ぼしい事件は、ほとんど漏れなく、詳細に記録しているのだが、ここに書きつけておこうとする「硫酸(りゅうさん)殺人事件」は、なかなか風変わりな面白い事件であったにもかかわらず、なぜか私の捜査録にまだしるされていなかった。取り扱った事件のおびただしさに、私はついこの奇妙な小事件を忘れてしまっていたのに違いない。

ところが、最近のこと、その「硫酸殺人事件」をこまごまと思い出す機会に出くわした。それは実に不思議千万な、驚くべき「機会」であったが、そのことはいずれあとでしるすとして、ともかくこの事件を私に思い出させたのは、信州のS温泉で知り合いになった猪股(いのまた)という紳士、というよりは、その人が持っていた一冊の英文の探偵小説であった。手擦れで汚れた青黒いクロース表紙の探偵小説本に、今考えてみると、実にさまざまの意味がこもっていたのであった。

これを書いているのは昭和――年の秋のはじめであるが、その同じ年の夏、つまりつい一と月ばかり前まで、私は信濃の山奥に在るSという温泉へ、ひとりで避暑に出かけていた。S温泉は信越線のY駅から、私設電車に乗って、その終点からまた二時間ほどガタガタの乗合自動車に揺られなければならないような、ごくごく辺鄙(へんぴ)な場所にあって、旅館の設備は不完全だし、料理はまずいし、遊楽の気分はまったく得られないかわりには、人里離れた深山幽谷(しんざんゆうこく)の感じは申し分がなかった。旅館から三丁ほど行くと、非常に深い谷があって、そこに見事な滝が懸っていたし、すぐ裏の山から時々猪(いのしし)が出て、旅館の裏庭近くまでやってくることもあるという話であった。

私の泊った翠巒荘(すいらんそう)というのが、S温泉でたった一軒の旅館らしい旅館なのだが、ものものしいのは名前だけで、広さは相当広いけれど、全体に黒ずんだ山家(やまが)風の古い建物、白粉(おしろい)の塗り方も知らない女中たち、糊(のり)のこわいツンツルテンの貸し浴衣という、まことに都離れた風情であった。そんな山奥ではあるけれど、さすがに盛夏には八分どおり滞在客があり、そのなかばは東京、名古屋などの大都会からのお客さんである。私が知合いになったという猪股氏も、都会客の一人で、東京の株屋さんということであった。

江戸川乱歩
(1894-1965)本名平井太郎。三重県名張市生れ。早稲田大学政経学部卒。日本における本格推理、ホラー小説の草分け。貿易会社勤務を始め、古本商、新聞記者など様々な職業をへた後、1923(大正12)年雑誌「新青年」に「二銭銅貨」を発表して作家に。主な小説に『陰獣』『押絵と旅する男』、評論に『幻影城』などがある。1947(昭和22)年探偵作家クラブ(後の日本推理作家協会)の初代会長となり、1954年江戸川乱歩賞を設け、1957年からは雑誌「宝石」の編集にたずさわるなど、新人作家の育成に力をつくした。

新潮社
2023年7月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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