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- 狭間の者たちへ
- 価格:1,980円(税込)
新潮新人賞受賞作家・中西智佐乃のデビュー作、『狭間の者たちへ』が刊行されました。
本書には、通勤電車で見かける少女の匂いを常習的に嗅いでいる保険営業所の営業マンと、同じ少女を盗撮する男性とが奇妙な関係を築く「狭間の者たちへ」、介護現場の暴力を克明に描いた「尾を喰う蛇」が収録されています。
目を背けたくなるような愚行を通して「暴力の連鎖」を浮かび上がらせた本書の中から、「狭間の者たちへ」の冒頭を一部抜粋して公開します。
***
背中で電車の扉が閉まった。大阪の最南部から都会へと向かう車内の座席は全て埋まっており、入って来た扉に向き合った。リュックを身体の前に抱え直してから、スーツのジャケットも一緒に引っ張らないように注意してウィンドブレーカーを脱ぐ。額の生え際に浮いた汗によって痒みが起こったが、両手がふさがりすぐに拭えなかった。ウィンドブレーカーをリュックに丸めて押し入れた時には、開いた窓からの風によって額は半乾きになっていた。うねりが強くなった前髪を、手の甲で持ち上げてから額を引っ掻く。ひどい癖毛で、短くしていても根本が水分を吸うともう駄目だった。
二十年ほど前、一度だけ縮毛矯正をしたことがある。しゃらしゃら落ち着かない前髪を整えてから大学の同級生三人に会った時、それぞれの顔に緊張が走ったのを素早く確認し合ってから、盛大に噴かれた。笑い声が萎んでから、美容師に練習させてくれって頼まれてと半端な作り話を口にし、一か月以内に床屋で短くした。小さい頃からの髪型に戻ったのを見て、これでいいと思った。それ以来、髪型を変えていない。
快速が停まる駅で扉が開くなり、降りたプラットホームの向い側、左斜め前に進む。三両目三番扉乗車位置では、二人ずつ二列になって並んでいる。彼女は先頭にいた。
いつものようにポニーテールにした彼女の黒髪の先が、高校のブレザーを着た背中に垂れているのに、何かが違う気がした。紺のスカートの長さは膝より数センチ上、足首までの靴下は白、茶色のローファーも変わりない。彼女が鞄を肩にかけ直し、キーホルダーが揺れた。キーホルダー――この前までなかった。
二つのキーホルダーが鞄の持ち手につけられている。二つともフェルト生地の手作りのようで、アルファベットが縫われている。一つは三文字、もう一つは二文字。三文字が何を意味しているのかはわからないが、二文字は彼女のイニシャルだろうか。判読が難しく、目を強く瞑って開く。Yが頭にあるようだった。
電車が到着し、開いた扉から前にならって右斜め前に進む。座席の前に立ち、自分の視界左側に彼女の姿を収める。彼女は扉に片方の肩をあてて立っていた。その彼女の後ろにスーツ姿の男が寄ってきた。
自分は後ろに立つのを週に二回と決めている。ショッピングモール内にある来店型総合保険会社の店舗には早番と遅番があり、早番の日しか彼女に会えない。
彼女はスーツ姿の男が近くに立つことを許すだろうかと試すような気持ちになりながら、その実、許されはしないと望んでいる。彼女を離れた場所で意識するようになってから、彼女がたまに周りの人に対し、警戒している様子を感じ取ることがあった。スマホから顔を上げて相手を凝視するといった些細な抵抗が多いが、時には一駅で降りてしまう場合もある。自分にはそういった素振りはない。許されているのだと一年ほど経ってから彼女からの判定を受け取った。
スーツ姿の男はジャッジが下されるより前にスマホに顔を落とし、彼女から距離を取った。もうすぐ彼女から元気をわけてもらえることに唾が溜まっていく。彼女からはいい匂いがした。咲きたての花のような、青みがかった甘い匂い。彼女からの元気を身体に取り入れると心がなだめられ、ごく稀にぼんやりとした熱を足の付け根に熾(おこ)しもさせられる。
唾をそろそろ喉に落とそうとして、やめた。彼女の横を通る時に唾と一緒に飲んだ方が、より濃く味わえるのではないかと試したくなった。
到着駅が告げられ、腹と足に力を入れる。あと一駅。自分の方が先に降りる。その時に彼女の横を通り、少しだけ元気をわけてもらう。マスクを直す素振りをして鼻を出した。マスクにこもった自分のにおいが、マスクをずらしてからより明確になる。鼻で長く吸って吐くことを繰り返し、外の空気と鼻の粘膜を馴染ませていく。嗅覚が蘇り始めた。
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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。
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