赤川次郎の新たな名作――“暗殺現場”を目撃した女子高生の運命とは? 『暗殺』試し読み

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「セーラー服と機関銃」「探偵物語」「三毛猫ホームズ」シリーズなどを手掛けるミステリー界の巨匠・赤川次郎によるサスペンス作品『暗殺』(新潮社)が刊行されました。

 射殺現場を目撃した女子高生と事件を追う女性刑事を主人公にした本作は、権力の醜悪と狂気を描いた圧巻サスペンス作品です。

 今回は試し読みとして本作の第一章の一部を公開します。

1  駅

「本当にいいの? 一緒について行かなくて」
 母の言葉に、玄関で靴をはいていた麻紀は振り返ると、
「やめてよ! 大学受験にお母さんがついてくるなんて、聞いたことない」
 と言った。
「そんなことないわ。果林ちゃんの所はお母さんがついて行くっておっしゃってたわよ」
「あの子はお嬢様だもん。うちは庶民ですから」
 と、麻紀は言って、「じゃ、行って来ます!」
 と、玄関のドアを開けて勢いよく外へ出た。
「気を付けてね! 車に用心して!」
 母の声は閉ったドアの中から聞こえて来た。
「全く、もう……」
 本当のところは、「ついて行かなくていいの?」じゃなくて、「ついて行っちゃいけないの?」と言いたいのだ。
 一人っ子の麻紀の大学受験。母が心配するのも分らなくはないけれど……。
 でも――私はもう十八歳なんだ!
 同じ学年で、麻紀の目指すK大学を受ける子は何人かいる。試験会場で顔を合わせたっておかしくない。
 そのときに、母親同伴じゃね……。
「大丈夫!」
 冷たい朝だった。吐く息が白く流れて行く。
 バスと電車を乗り継いで、一時間と少し。でも、万一事故にあったりすることを考えて二時間近く前に家を出ていた。そのせいで余計に寒いのだ。
 でも、この日のために、しっかり計画を立てて勉強して来た。絶対に受かる!
 工藤麻紀は軽快な足取りでバス停へと向っていた。

 ところが――。
 思ってもみないことだった。麻紀が受験するK大学を下見に行ったのは土曜日の昼間のことで、今日は平日の朝だったのだ。
 いつも都心とは反対方向の高校へ通っていた麻紀は、通勤ラッシュというものを知らなかった。
 バス停には十人ほどが列を作っていたが、やって来たバスはすでに満員で、新しく乗客を入れる余地がないので、バス停で停まらず、通過して行ってしまったのだ。
 利用客は減っていたが、その分、バスの本数も減っていた。――麻紀は焦った。
 三台目のバスに何とか乗ることはできたが、ここで十五分も待たされてしまっていた。
 そして、電車もラッシュアワーには、しばしばスピードを落として運転している。――K大学のある駅に降り立ったとき、試験開始時間まで二十分しかなかった。
 もちろん、駅から大学までは歩いて十分ほどだから、遅れる心配はなかったのだが、あれほど悠々と家を出た麻紀は、改札口へと向う人の流れを必死でかき分けなければならなかった。
 こんなに焦るなんて! ――麻紀は、それでも何とか気持を落ちつかせようとした。
 こんなにあわててたら、いつもの力が出ない! 麻紀、落ちつくのよ!
 幸い、駅の改札口を出ると、通勤客のほとんどは右手の出口へ流れて行き、麻紀と同じ左手へ行く客は少なかった。同じ受験生と分る高校生も何人か目について、麻紀は安堵した。
 売店やコーヒーショップの並んだ通路を抜けると、数段の階段を下りて、外の通りへ出る。――あわてて転んじゃいけない!
 麻紀は一旦止まって、呼吸を整えた。
 階段を下りかけたとき、大急ぎで駅へやって来る男性がいた。かなりしわになったコートをはおって、背広も小さめのせいか――太ってしまったのだろう――型崩れしている印象だった。
 息を切らしながら、太った体を自分で持て余しているように、麻紀と階段ですれ違った。
 こんな寒い日なのに、汗かいてる、と麻紀はチラッと思った。でも、そんなこと、どうでもいい。
 階段を下りて、二、三歩行きかけたとき、背後でバンと何かが破裂するような音がした。
 思わず振り返ると――信じられない光景が見えた。
 すれ違った、あの太った男性が、よろけながら階段を転がり落ちて来たのだ。そして、男性の斜め前に黒いコートの男が立って、その手には、どう見ても拳銃としか思えないものが握られていた。
 今のは――銃声?
 麻紀が呆然として見ていると、倒れた男性が胸を押えて苦しそうに呻いた。その指の間から赤いものが溢れて来る。血だ。
 何、これ? どういうこと?
 目の前で起ったことが信じられない。だって――まさか、そんなこと――。
 倒れた男がもう一方の手を麻紀の方へ伸ばそうとした。助けてくれ。――言葉にならなくても、そう言おうとしていることは分った。
 しかし、黒いコートの男は進み出てくると、倒れた男に銃口を向けて、引金を引いた、一度、二度。銃声が耳を打った。
 倒れた男は動かなくなった。
 麻紀がその場に立ち尽くして動けずにいると、黒いコートの男は拳銃を握った右手をコートのポケットに入れた。
 そしてその男は麻紀を見た。色白で無表情な顔。銀ぶちのメガネの奥の冷ややかな目が麻紀を見たのだった。
 いやでも目が合ってしまう。振り向いた麻紀は、黒いコートの男と正面から向き合うことになったからだ。
 そして――その男はクルッと麻紀に背を向けて、歩き去った。
「――どうしたの?」
 と、声がして、エプロンをつけたおばさんがサンダルばきでやって来ると、「まあ! 血が出てるじゃないの!」
「あの……」
「どうしたの、一体?」
「知りません。私――」
「ともかく救急車、呼ぶからね!」
 と戻りかけて、「あなた、ここで見ててね!」
 そんな……。私、何も関係ないんです!
 そう叫びたかったが、声が出ない。
 人が何人か――駅へ入る人、出て来る人もいたが、みんな倒れている男をチラッと見るだけで、足も止めずに行ってしまう。
「そうだ。――入試なのよ」
 ここで待ってなんかいられない! 試験に遅れちゃう!
 もう行こう。だって、私、何も知らないんだもの。
「ごめんなさい」
 と、口の中で呟くと、麻紀は行ってしまおうとした。
 そのとき――倒れた男が、目を開けたのだ。麻紀はびっくりした。もうてっきり死んだと思っていたからだ。
 男は、はっきり麻紀を見ていた。そして、かすかに口が動いた……。
 麻紀は駆け出した。――K大学へ、急がなきゃ!
「私、知らない。――何も知らない」
 何度も口の中でくり返しながら、麻紀は試験開始の七分前に、K大学の校門を入って行った。

赤川次郎
1948年生れ。桐朋高校卒業後、日本機械学会在職中にテレビドラマ「非情のライセンス」シナリオ公募に入選。1976年「幽霊列車」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、小説家デビュー。1978年『三毛猫ホームズの推理』が大ヒットし、一曜ベストセラー作家となる。1980年『悪妻に捧げるレクイエム』で角川小説賞、2005年日本ミステリー文学大賞、2016年『東京零年』で吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。「三毛猫ホームズ」「子子家庭」「吸血鬼」などのシリーズものやエッセイも手がけ、著書は2024年初頭現在、650冊を超える。『セーラー服と機関銃』『探偵物語』『ふたり』『死者の学園祭』『夢から醒めた夢』などがある。

新潮社
2024年3月5日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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