革命で横浜市とほぼ同じ領地を失った貴族の逆転人生……デヴォンシャ公爵家の奇跡の再興

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初代デヴォンシャ公爵(左)と、伯爵家の居城チャッツワース・ハウス((C)Snapvision – stock.adobe.com)

 日本でも大人気のTVドラマ「ダウントン・アビー」では、広大な屋敷で執事や召使いに囲まれ優雅に暮らすイギリス貴族が登場する。史実を背景に描かれた作品という触れ込みだが、実際の貴族はどのように生活をし、家系を守ってきたのか? 隣国からの革命の風を受けながらも、したたかにしぶとく生き残った貴族たちの秘密とは? 英国貴族史研究の第一人者である君塚直隆氏の『教養としてのイギリス貴族入門』から抜粋して紹介する。

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 イギリス貴族の5爵(公侯伯子男)なかで公爵は別格中の別格となる。21世紀の現在、イギリスには(王族を除いて)24の公爵家が残っているが、ここで取り上げるのは「デヴォンシャ公爵家(Duke of Devonshire)」である。

 元々の家名はキャヴェンディッシュ(Cavendish)という。公爵家の開祖ともいうべきサー・ウィリアム(1508~1557)は、16世紀前半期に国王ヘンリ8世の宮廷財政を担い、その功績で勲爵士(ナイト)に叙せられた。彼こそが現在でも公爵家の居城となるチャッツワース・ハウス(Chatsworth House:イングランド中央部ダービーシャに建つ)を築いた人物である。

 彼の次男ウィリアム(1551~1626)が後継ぎとなるが、父とは異なり宮廷より地方に関心を示し、所領経営に邁進した。王朝もステュアート家に代わり、1618年にはデヴォンシャ伯爵に叙せられた。この初代伯爵が亡くなる頃までには、伯爵家の所領は10万エーカーを超えるまでに拡がった。現在の日本でたとえるなら、横浜市より若干小さい広さということになる。

有名哲学者ホッブズを家庭教師に

 初代伯爵はまた子供たちの教育にも熱心であった。伯爵が息子のために住み込みの家庭教師として雇ったのがトマス・ホッブズ(1588~1679)。あの『リヴァイアサン』で有名な哲学者である。オクスフォード大学を出たばかりの20歳のホッブズは、伯爵から手厚い保護を受け、御曹司の教育にあたった。

 その彼とともにフランスやイタリアを修学のために廻ったのが第2代伯爵のウィリアム(1590~1628)。ホッブズとは年齢が近く、こののち彼自身が亡くなるまで終生親交は続いた。
 ところが伯爵家に異変が起こる。その2代伯が1628年突然亡くなってしまうのである。38歳という若さであった。伯爵位は当時11歳の長子ウィリアム(1617~1684)が引き継ぐことになったが、まだ子供である。そこで亡き2代伯の未亡人クリスチャン(1595~1675)がすべてを取り仕切ることとなった。

 男爵家から12歳という年齢で嫁いできた彼女は、いわば「女傑」ともいうべき存在に成長していた。夫を失ったときもまだ33歳ではあったが、夫が残した借財も見事に返済した。またホッブズを家庭教師としてとどめ、今度は息子の3代伯の教育にあたらせた。この子もやがてホッブズとともにヨーロッパ大陸を廻り、フィレンツェではかのガリレオ・ガリレイにも会っている。

 ヨーロッパから帰国した直後(1639年)に3代伯は結婚する。お相手は第2代ソールズベリ伯爵の次女エリザベス。このソールズベリ家については、『教養としてのイギリス貴族入門』の中で詳しく取り上げているので、興味を持った方は是非そちらを参考にしてほしい。

「清教徒革命」のさなかに亡命

 二人が華燭の典を挙げた当時のイングランドは、実は内乱寸前の状況にあった。ときの国王チャールズ1世が11年にわたり議会を開かずに、人々から不当な税金を取り立て、はむかうものは不当に逮捕・投獄されていた。国王と議会の対立はついに頂点に達して、ここに「清教徒ピューリタン革命(1642~49年)」とも呼ばれる内乱へと発展した。

 デヴォンシャ伯爵家は国王派に属し、3代伯の弟チャールズは内乱のさなかに戦死している。兄の伯爵は戦闘に加わることはなく、議会派の優位が確定する頃までにはヨーロッパ大陸へと亡命してしまった。チャッツワースも所領もすべて議会派に没収された。
 国王の首が切られ、議会派により共和政が始まったものの、それも11年で幕を閉じた。1660年に王政復古となり、伯爵は家族とともに帰国した。これまた女傑の母クリスチャンのおかげで伯爵家の財産はすべて取り戻された。彼女は同じく亡命中だったチャールズ2世(チャールズ1世の長子)に資金を送り、支援を続けていたのだ。3代伯は特に政治活動は活発におこなわず、長年にわたり家庭教師を務めたホッブズを屋敷(ハードウィック・ホール)で看取り、その5年後に彼自身も67年の生涯を閉じることとなった。

「名誉革命」で公爵家へ

 後継者の4代伯ウィリアム(1641~1707)もまた、幼少期からホッブズに学んでいる。王政復古とともに庶民院議員に選ばれ、議会活動に邁進した。国政に関心がなかった父とは対照的に、「キャヴェンディッシュ卿(Lord Cavendish)」の名で政治活動を展開した彼は、議会政治のなかで頭角を現していく。イングランド国教会に属していた4代伯は、カトリック教徒であることを公言していた国王の弟ヨーク公爵(のちのジェームズ2世)が王位を継承することに反対を示していた。父が亡くなり第4代伯爵を襲爵(しゅうしゃく)した翌年(1685年)、ジェームズ2世が即位し、王は次第に側近をカトリック教徒で固めていく野心をあらわにしていった。

 4代伯は同じくカトリック王の即位に否定的だった、国王の女婿で甥にもあたるオランダ総督のウィレムと連絡を密にした。1688年6月、ジェームズ2世に男子が誕生し、この子(同じくカトリック教徒)が王位を引き継ぐ可能性が高まるや、他の有力者6名と1緒にウィレムをイングランドに招請する。のちに「不滅の7人」と呼ばれる1角を4代伯は占めていたのである。

 これを受けて同年11月にウィレムはオランダ軍とともに上陸する。イングランドでは大半の貴族たちがジェームズ2世に反旗を翻しており、王は戦わずしてフランスへと亡命した。世に言う「名誉革命(1688~89年)」の成功である。

 ここにウィレムはウィリアム3世として妻メアリ2世(ジェームズ2世の長女)と共同統治をおこなうことになった。2人を支える王室家政長官には4代伯が就任した。これらの功績から、1694年に伯爵はついに「初代デヴォンシャ公爵」へと陞爵(しょうしゃく)したのである。公爵位と同時に与えられた爵位により、これ以後、公爵家の長子には「ハーティントン侯爵(Marquess of Hartington)」という儀礼上の爵位を名乗れる権利が認められた。

 イングランドに立憲君主制を確立した名誉革命の功労者であったにもかかわらず、これ以降公爵は政治にはあまり深入りせず、あくまでも宮廷の運営のみに専心していく。それはまさに公爵家の家訓である「慎重さによって身を守れ(CAVENDO TUTUS)」を実践してみせたかのようであった。こうしてイングランドで上から8番目の家格となる「デヴォンシャ公爵家」の歴史が始まることとなった。

君塚直隆
1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、『悪党たちの大英帝国』、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』、『物語 イギリスの歴史』他多数。

新潮社
2024年3月27日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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