母の故郷・長崎で一杯…太田和彦が歴史と思い出を巡る居酒屋「こいそ」の旅 『大人の居酒屋旅』試し読み

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 孤高の居酒屋評論家・太田和彦さんの『大人の居酒屋旅』(新潮社)が刊行されました。

 口開けまで、と気になった美術館を巡り、名所の碑文・銘文をじっくり眺め、常連ばかりの喫茶店で一休み。そうして土地をより深く知ったのち、これと決めた名店でやる一杯の美味さ綴った一冊です。

 今回は試し読みとして本作の中から、母の故郷・長崎での旅を綴った「母をたずねて――長崎」を抜粋して公開します。

母をたずねて――長崎

 長崎、オランダ坂の石畳を日傘の女性がゆく。ここから山手は幕末から明治期に外国人居留地として洋館が建ち、そこからは港がよく見えた。長崎は坂と港の町だ。
 左手は、明治十二年アメリカの女性宣教師ラッセルによりミッションスクールとして生徒一人から始まった日本女子教育の草分け、活水女学校。今の活水女子大学は、赤屋根にならぶドーマー窓がイギリスの寄宿学校のようですてきだ。
 昭和三十七年、日活映画「若い人」は活水でロケされ、青年教師に石原裕次郎、同僚女性教師に浅丘ルリ子、裕次郎に恋心を寄せる女学生に十七歳・吉永小百合の豪華配役。見どころは小百合のルリ子先生への微妙な対抗心と、つねに映される石畳のオランダ坂だった。
 その活水女子大正門の向いに「長崎物語」の歌碑が立つ。


「長崎物語」の歌碑

赤い花なら曼珠沙華
阿蘭陀屋敷に雨が降る
濡れて泣いてるじゃがたらお春
未練な出船の鐘が鳴る

 じゃがたらお春はイタリア人航海士と長崎の貿易商家の女性の間に生まれ、寛永十六年の鎖国令により家族とともに十四歳でバタヴィア(ジャカルタ)へ追放され、帰ることのなかった容姿美しい娘。山手にある唐寺・聖福寺の棕櫚の脇には言語学の重鎮・新村出の書で〈志やがたらお春の碑〉が立ち、裏面〈長崎の鶯は鳴く今もなおじゃがたら文のお春あわれと〉は歌人・吉井勇の作だった。
「長崎物語」の詞を書いた黒崎貞治郎は毎日新聞社会部長にして、梅木三郎の名で歌謡詞の筆をとった人、とある解説文は井上靖。井上は戦前「サンデー毎日」の懸賞小説に入選したのが縁で毎日新聞大阪本社に入社、学芸部に配属された。黒崎は上司だったのかもしれない。
 今日もオランダ坂を女学生が上がってくる。この坂には女学生が似あう。

         *
 坂からもどり旧丸山花街へ。
 日本三大花街といわれた丸山は海外貿易の発展とともに、一時は遊女一四四三人を数えるほど隆盛。最も大きな遊廓「引田屋」庭園にあった茶屋「花月」は唐船主や井原西鶴、向井去来、大田蜀山人、高島秋帆、頼山陽ら文人墨客も多く訪れた。
 一八六二年、土佐藩を脱藩した坂本龍馬は江戸で勝海舟の門人となり、翌々年、勝とともに初めて長崎を訪ねて滞在。花月で会談密議、ときに羽をのばす。そして亀山社中を結成、後藤象二郎と会って脱藩を解かれ海援隊隊長に任命される。
 花月に至るすり減った幅広い石畳は往時の往来をしのばせ〈山陽先生故縁之處〉の石柱。左奥玄関には縁起をかつぐ竹編みの大塵取りに「花月」の立体金文字がおさまり、朱房の紅白大提灯、左右に小提灯が連なって、いかにも大物を迎える格式と華やかさだ。
「いらっしゃいませ」
 着物の女将が正座三つ指で迎える。私は予約を入れて昼食に来たが、狙いは内部の見学だ。いまここは創業三七〇年になる「史跡料亭」。若い仲居さんに案内された、折れ曲がる廊下にかかる額「山色仙流」は山県有朋書、一番奥はガラス張りの立派な資料展示室だ。
 肖像画に並ぶ龍馬直筆の文書は、能筆にこだわらない闊達な勢いが魅力。軸「頼山陽と頼杏坪の菊と賛」は、頼山陽の書に叔父・杏坪が菊の絵を合わせたもの。三ヶ月におよんだ長崎遊学で頼山陽はここにも足しげく通った。山陽は淡墨の南宋画も残しており、あまり上手くないのがいい。「完淡画 月琴と笛合奏図」は、長崎に入ってきた丸胴四弦の月琴と横笛の協奏で、賛字は清雅なれど私には判読できず残念。外国に開いた地のおおらかな気風が文人に愛されたのがよくわかる。
 横長の記念写真は、一九一三年、孫文が長崎を訪れた際の写真で、孫文(孫中山)先生を中央に、宮崎滔天(浪曲師、日本人では最大の孫文支援者)、金子克己(孫文の盟友、佐世保出身大陸浪人、アジア主義者)、西郷四郎(東洋日の出新聞社員、柔道・姿三四郎のモデル)らが囲む。正面の大軸は〈天下為公 孫文〉。
 二階の大広間「竜の間」は、同志や文人と来遊した龍馬が戯れに振り回したという刀傷が残る。
「其扇の間」はシーボルトの日本妻・お滝さんこと其扇太夫の部屋で、二人のもうけた娘・楠本イネは後に日本最初の産科女医となる。大久保玉珉画「出島蘭館の遊女到着図」は、出島に呼ばれた遊女の駕籠を白ターバンのインド人、フロックコートの金髪異人らが迎える図で、シーボルトと芸妓・其扇太夫に擬している。
 タイル張りの床にテーブルと椅子の、日本で初めての洋間「春雨の間」にはこれも吉井勇〈長崎の春は来るらしめつらしき和蘭陀皿の花模様より〉の軸があった。
 夕刻ちかく訪れた長崎総鎮守・諏訪神社は社殿に登る石段に鳥居が連なり、脇にはいくつかの碑がある。五ノ鳥居脇の碑によれば、長崎に生まれた向井去来は俳諧に進み、蕉門十哲の一人に数えられ、蕉風の代表的撰集『猿蓑』、蕉風俳論の粋『去来抄』をまとめた。八歳で離れた故郷を忘れがたく再度長崎を訪れては数々の佳吟を残したとして、

尊さを京でかたるも諏訪の月

 望郷の心情を諏訪神社に託した句の解説は、長崎出身の文芸評論家・福田清人。
 さらに石段を上がると、同じく長崎出身・山本健吉の文学碑〈母郷行〉がある。
〈……雨が洗った石畳の坂道、西日のさす白壁の土蔵の前、物の匂ひのこめる市なかに、ふと少年のままたたずむ私を見る。(……)私が町を憶えてゐる以上に、町は幼い私を憶えてゐてくれた。それが故郷といふものか。いま私は、わが身を何か大きなものの手にすっぽりと委ねてゐる。……〉
       *
 母郷行――私の母は長崎の出身だ。
 戦前の中国で教員をしていた長野県出身の父と現地で見合い結婚。昭和二十年の敗戦後、北京の日本人収容所に入り、翌年三月、生後十八日の私と二歳の兄を連れた家族四人は日本への引揚げ船に乗り佐世保に入港。しばらく長崎大村の母の実家に滞在後、向かった父の故郷、長野で本格的な戦後の生活が始まる。
 海に面して気候温暖、魚や中華料理など豊かな長崎と、山岳に囲まれて寒さ厳しく産物乏しい信州長野は、風土人情は全く異なり母は苦労した。失意もあったかもしれない。
 私が小学生のとき、母の父の葬儀のために一家で長野から長崎に向かった。ちょうど夏休み中で父も時間がとれ、母は初めての里帰りだ。頑固で理屈っぽい信州人とはちがい、長崎の母の実家は皆優しく「よかよ」と声をかけあい、姉や弟に迎えられた母は安心感のある大きな笑顔を見せ、私は子供心に「人は優しい方がいいんだ」と知った。葬儀をすませ、父とグラバー邸や大浦天主堂に観光したのも忘れられない。叔父に連れられ初めて海水浴を体験、海の水はしょっぱいと知った。以来長崎が大好きになり、自分は長崎人でありたい、長崎を故郷としたいと思うようになった。
 長野出身の父の名「義一」は「義」を尊ぶ意味、長崎出身の母の名「和子」は「和」を尊ぶ意味。私の「和彦」は母の字をもらっている。長崎はその母の町だ。
 諏訪神社石段を上がりきって一望した港を囲む山は上まで家が続き、歩いて来た活水女子大の赤屋根も見えた。
     *


「こいそ」。<きびなご>を肴に本日の1杯

 夜になり、思案橋横丁の居酒屋「こいそ」へ。
「あらー、太田さん」
 小顔美人の奥様が声で迎え、主人は包丁を手ににっこり笑う。長崎人の定評「男は親切、女は美人」のとおりだ。

 小さな〈きびなご〉を肴に一杯傾けた。ここに座るといつも落ち着くのは「帰ってきた」気持ちだろう。苦難の戦後引揚げで故国に着いた父母の感懐は、まさに「帰ってきた」に違いない。それが生後間もなかった自分にも沁みこんでいるのだろうか。私は日本で生まれ直したのか。
 奥の小部屋の女性六人が「ハッピーバースデートゥユー」を歌い始めた。何かプレゼントしたい。名物〈骨せんべい〉を奥様に運んでもらうと、「わあ」という声とともに一斉にこちらを見られて恥ずかしい。恥ずかしいがうれしい。
 人の幸せがここにある、母の故郷長崎は幸せの町だ。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

太田和彦
1946(昭和21)年生まれ。グラフィックデザイナー、作家。東京教育大学(現・筑波大学)卒。資生堂宣伝制作室を経て独立。著書に『超・居酒屋入門』『日本居酒屋遺産』『映画、幸福への招待』など。

新潮社
2024年4月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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