ザイルを切って見捨てた仲間が生還…沢木耕太郎が紹介する山岳ノンフィクション『死のクレパス』とは? 『夢ノ町本通り』試し読み

試し読み

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沢木耕太郎さん

 作家・沢木耕太郎さんによるブック・エッセイ『夢ノ町本通り』(新潮社)が刊行されました。

 本作は多くの旅人がバイブルとしている不朽の名作『深夜特急』で描かれた旅――その直前、26歳の時に書かれた単行本未収録の幻のエッセイ「書店という街よ、どこへ?」など36編を収録した一冊です。

 読売文学賞を受賞、10万部を超えるベストセラーとなったノンフィクション『天路の旅人』や佐藤浩市さんと横浜流星さんのW主演で映画化され話題を呼んだ小説『春に散る』など、今なお大きな注目を集める沢木さんが、本を片手に旅した30年間とは?

 今回は試し読みとして、沢木さんの代表作の一つ『凍』が誕生するキッカケとなった山岳ノンフィクションについて綴った「ノンフィクションの夢」を全文公開します。

 ***

「ノンフィクションの夢」

ジョー・シンプソン著『死のクレバス』(中村輝子訳)

 もしこの作品、『死のクレバス』を読まなかったら、私は『凍』というタイトルの山岳ノンフィクションを書くことはなかったかもしれない。
 私は山について何も知らない。それは別に謙遜でもなければ冗談でもなく、東京で生まれ育ったにもかかわらず、ほんの二年前まで高尾山すら登ったことがなかったくらいなのだ。
 もっとも、山について書かれたノンフィクションはいくつも読んでいる。ラインホルト・メスナーにインタヴューするため彼の著作はほとんど読んだし、日本の山岳ノンフィクションといわれるものもかなり読んできた。
 しかし、そうした中でも、私にとってとりわけ『死のクレバス』の印象が強いのは、主人公であるジョー・シンプソンのサバイバルの凄まじさに心打たれたから、というわけではなかった。そこに、ノンフィクションを書く者としての私を刺激する、あるものが秘められていたからなのだ。

 この『死のクレバス』という作品は次のように要約できる。
 二人の若いクライマー、ジョー・シンプソンとサイモン・イェーツがペルー・アンデスにあるシウラ・グランデ峰の未踏の西壁を登る。登頂には成功するが、下降の局面でジョーが足を骨折してしまう。サイモンは、ザイルを使い、滑らせるようにして、ジョーを降ろそうとする。しかし、その繰り返しの中で、ジョーが切り立った壁で宙づりになってしまう。サイモンは引き上げることもできず、ザイルを体から離すこともできない。だが、そのまま耐えていれば、やがて一緒に転落することになるだろう。一緒に落ちるか、それともザイルを切断するか。サイモンはザイルを切断することを決意する。そして実際にナイフでザイルを切ったサイモンは、自分はジョーを殺したのだという痛切な思いを抱きつつベースキャンプに帰還する。しかし、クレバスに転落したジョーは奇跡的に命を取り留めていたのだ。ジョーはそこからほとんど這うようにしてベースキャンプに戻っていく……。
 そして、この作品は、切り落とされた側であるジョーによって書かれているのだ。

 山岳ノンフィクションには、二つのタイプがある。ひとつは当事者が自分の体験をもとにして書くものであり、もうひとつは専門的なライターが当事者を取材して書くものである。人称で言えば、一人称で書かれているか、三人称で書かれているかの違いということになる。当事者が一人称で語る山岳ノンフィクションは、視点は限定されるものの実感に支えられた深みが獲得できるし、ライターによって三人称で書かれた山岳ノンフィクションは、内在的な深みには欠けるが多様な視点を持つことで構造的な堅牢さを獲得できる。
 この『死のクレバス』は明らかに前者のタイプの作品だが、単純な一人称の作品にはなっていない。一人称のモノローグの中に、他者の視点とでもいうべきものが導入されていて、複眼的な世界を形作っているのだ。それは具体的には、本来ジョーの著作であるこの『死のクレバス』の中に、切り落とした側のサイモンの手記が五カ所にわたって挿入されていることによっている。

 この作品の内容は大きく三つの部分から成っている。
 まず第一の、二人がベースキャンプを出発し、登頂に成功して下降に入るまでの部分。次に第二の、ジョーが骨折し、ザイルで降りていく途中で宙づりになり、サイモンがそのザイルを切るまでの部分。そして第三の、クレバスに転落したジョーが文字通りのサバイバルを果たすまでの部分。
 そのうち、どこがこの作品のハイライトかということになると意見が分かれるかもしれない。第一の登頂から下降の端緒までの部分という人は少ないだろうが、第二のサイモンがザイルを切る前後の部分と、第三のジョーがサバイバルする部分のどちらを取るかでは意見が分かれるように思うのだ。それは、この作品をいかなる物語として読むかの違いによっている。
 もしこの作品を、どのような困難に遭遇しても諦めることなく最後の最後まで生きるために戦い抜く、というまさにイギリス的な魂を持った若者のサバイバル記、冒険記と読むなら、問題なく第三の部分こそハイライトということになるだろう。
《這って歩くいちばんいい方法を編み出す前に、ちょっとした実験を行なった。湿った軟雪は滑るのに困難だ。片膝と両腕を前に出して行く形は痛みを伴うことがすぐ分かった。左側に体を倒し、痛めた膝を外側に出し、両手のアックスを引き寄せ、左膝をぐっと押し出す動作の組み合わせだと着実に進んでいく。悪い方の足は厄介者のように後ろに滑らせた。時々、止まっては雪を食べ、休んだ》
 一方、これを、自分が生きるために他人の命綱を切ってもいいのかという究極の選択を迫られた人間の救いのない物語と捉えるなら、言うまでもなく第二の部分こそハイライトということになる。
 私には、この作品を単なる山岳ノンフィクション以上のものにしているのは、ジョーのサバイバルの物語の中に、サイモンの苦悩の物語を含ませることができたからだと思える。
 ジョーはザイルを切られてクレバスの中に転落したが、幸運にも命を取り留めた。そのとき、ジョーのテーマはひとつである。生き延びること、生きてベースキャンプにたどり着くことだけである。しかし、サイモンは違った。サイモンは自分自身も生還しなくてはならなかったが、その過程ではジョーの死というものとも共に生きなければならなかったのだ。
 いわば、サイモンは、ある意味で神学的な、ある意味で文学的なテーマを抱え込んでしまったと言える。
《長く、いやな気分の中で、罪の意識と恐怖が体を駆けめぐった。たった今、ザイルを切断したようだった。彼の頭に銃を突きつけ、撃ったも同然だ。目を開けると、クレバスに目をやることもできず、いっさいの望みも失せて岩壁に張りついた氷を見つめていた》
 それにしても、サイモンという人は、よくぞこれを書いたと思う。それでなくとも難しい立場にあっただろう彼が、自分の著作ではなく、ザイルを切ってしまった相手の著作の中に挿入される手記を書く。たとえ、ジョーに負い目があり、書いてくれと強く頼まれたとしても、弁解がましくなく、かつ自虐的でもなく書くことは至難のわざだったはずだ。
 中盤から後半にかけて、この作品の厚みが一挙に増すのは、間違いなく途中五カ所にわたって挿入されるサイモンの手記のおかげである。
《こんなに惨めな孤独を味わったことはない。私は勝てなかった。雪穴で経験した恐ろしい罪の宣告理由を理解し始めた。もしザイルを切らなかったら、私は確実に死んだだろう。絶壁を見れば、ここを落ちたら生き残れはしないことが充分わかる。しかし、今私は助かり、国へ帰って、人々にほとんど信じてもらえそうにない話をすることになる。ザイルを切断することなどできるのか! そんないまわしいことがあり得るのか! ほかの努力ができなかったのか……など、など。いろんな声が聞こえるようだし、私の話を受け入れてくれた人の目からも依然消えない疑念が見えるようだ》
 読者としての私は、もう少しサイモンの手記を読みたいと思う。とりわけ、ジョーが生還したときのサイモンの驚きと恐れは、ジョーの文章によってしかわからないが、私はサイモン自身の言葉で読みたかったと思う。
 もっとも、ジョーの筆によるベースキャンプでの再会のシーンだけでも充分に感動的ではある。ザイルを切り、自分を死の縁に追い込んだ相棒のサイモンが目の前にいる。当のサイモンは当然死んだものと思っていたジョーが不意に現れた驚愕の中にある。
《私の脇に膝をついてじっと見つめる彼の目の中に、憐れみ、恐れ、驚愕が混じり合い、闘っているのが見てとれた。私は笑いかけた。彼もにっこり笑い返して、ゆっくり首を左右に振った。
「ありがとう、サイモン」私が言った。「あれでいいんだよ」彼はつと視線を外して、顔をそむけた。「とにかく、ありがとう」
 彼は黙ってうなずいた。テントはろうそくの温かな光に満ちていた》
 美しいシーンである。彼自身が書いたものだという点を割り引いても、ジョーという人のフェアーさ、高潔さがにじみ出ている。

 この『死のクレバス』は、サイモンの手記をただ挿入するという無骨な方法によって、一人称でありながら、三人称の視点をも持ち得るものになっていた。私はこれを読んだとき、こう思ったのだ。これとは逆に、三人称でありながら一人称の深みを持つものは書けないだろうか、と。
 そして、山野井泰史と妙子という二人のクライマーと出会ったとき、さらにギャチュンカン北壁の登山について知ったとき、もしかしたらその夢はかなえられるかもしれないと思ったのだ。
 やがて私は、山野井泰史と妙子を「ガイド」にして初めての山として富士山に登り、その三カ月後にはヒマラヤのギャチュンカンの五千五百メートル地点まで登ることになる。それはすべて、三人称によってどこまで一人称の深みに達せられるかという、ノンフィクション上の夢を実現させるための一歩であり、二歩だったのだ。
(2006年10月)

続きは書籍でお楽しみください

沢木耕太郎
1947年東京生れ。横浜国立大学卒業。ほどなくルポライターとして出発し、鮮烈な感性と斬新な文体で注目を集める。79年『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、82年『一瞬の夏』で新田次郎文学賞を受賞。その後も『深夜特急』『檀』など今も読み継がれる名作を発表し、2006年『凍』で講談社ノンフィクション賞、13年『キャパの十字架』で司馬遼太郎賞、23年『天路の旅人』で読売文学賞を受賞する。長編小説『波の音が消えるまで』『春に散る』、国内旅エッセイ集『旅のつばくろ』『飛び立つ季節 旅のつばくろ』など著書多数。

新潮社
2023年10月31日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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