他者を知ること
本を読まない友人に、村田沙耶香さんの小説の一つを薦めたら、3日後に読了したという連絡がきた。読みやすかったし、おもしろかった、と言う。わたしが好きな本を読んでくれたこと、楽しんでくれたこと、それだけでわたしにとっては嬉しかったが、ちゃんと内容についての感想も丁寧に述べてくれた。
だけど話を聞いていると、いまいち共感はできなかった様子だった。でもそれがおもしろかったのだと言う。こういう考えの人もいるんだなって知れたことがおもしろかった、と。
他者を知ること。これは読書の効用の一つだ。効用を求めて読書なんてしたくはないが、本を読んで、結果的に自分以外の誰かを知ることができた、ということはこれまでの読書人生で多々あった。他者を知ることは、自分にはない新しい感覚が体内に入ってくるようで、わたしが常に新鮮に物事を楽しむためには必要な要素なのだ。それはとてもおもしろいことで、心を豊かにするものだと思っている。
「自分はお酒を飲むことで、似たようなことをしていたみたい」
趣味を聞かれてわたしが“読書”と答えるように、その友人は“お酒を飲むこと”と当たり前のように答えるような人なのだが、今回本を読んでみて近い体験ができると気が付いたそう。
お酒を飲むことがなぜ好きなのかというと、人と会って話すことで、その人を知れるから。自分にはない感覚であればあるほど、気になって話を聞きたくなる。同じように、気になってページをめくる手が止まらなかったのだ。そう、友人が話してくれた。
その本のおもしろさはもちろんだけど、本を読むこと自体のおもしろさを分かってもらえたことが、無性に嬉しくて、もはや感動の域に入って、なぜだか最終的に「ありがとう」と伝えていた。
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- アイスネルワイゼン
- 価格:1,980円(税込)
そんな感動に浸っていた最中だったということもあって、三木三奈さんの『アイスネルワイゼン』にはもう冷や水を浴びせられたような気分……。自分にはない感覚が体内に入ってくるのを、必ずしもおもしろがれるわけではないことを思い知った。本作は読めば読むほど、むしろ拒否反応が出るくらいだ。本を読んでこんな感覚になったのは初めてだった。
主人公は、フリーでピアノを教えている32歳の琴音。子供にピアノを教えている場面から物語は始まる。子供はレッスンの最中にうつらうつらとしているし、次の発表会は出たくないという。やる気のない子に教えるという、中身のない時間を過ごしている琴音の虚しさが見えてくる。
その愚痴を友達につらつらと吐き出す。すると話の流れで、その子供もいつやめるか分からないから稼いだ方がいいんじゃないと、友達からクリスマスの仕事を頼まれる。ちょっといやな予感がしつつも請け負ったら、また散々な思いをするのだ。
この辺りまでは、ままならない日常に、それでも立ち向かっていく主人公に寄り添い、応援すらしていた。けど読み進めると、どうやら違う。ままならない日常の一因は、主人公自身の言動にもあることが見えてくる。それは言っちゃだめだよ、やっちゃだめだよと読者が思うようなことが次々と繰り広げられる。誰が悪い、とかでもなく、それぞれがちょっとずつ歪んでいるから、そりゃあ噛み合うはずないと思う。
容赦ないほどに浮き彫りになっていく、人と人との相容れなさ。それは読者であるこちらにも伝わってきて、やがて主人公との距離もできていく一方だ。
主人公はどん底へころげ落ちていく。もう気づいたときには、どうあがいてもだめ。むしろ、あがくと足元はさらに崩れ、戻れる道すらなくなる。もうこうなったらどん底までいくしかないのだ。
そこからようやく上を見上げてみて見える光があるかもしれない――。そうここで書くことによって自分を納得させなければならないくらいに、救いのないラストであった。
でも、空のキャリーケースを「重たくて持てない」とへたり込む主人公の姿は、本書に収録されたもう一篇『アキちゃん』に出てくる一節と結びついて、やけに鮮明にわたしの脳内に焼き付いたのだった。
〈ほとほと疲れ果てる憎しみを習慣にしだすと、憎しみの根本である怒りや悲しみはもはや怒りや悲しみではなくなってしまう。それは虚無になりさがるのだ〉
さまざまな感情はあるが、虚無ほど体に重くのしかかるものはない。
読み終え、わたしまで体が重い。“他者を知る”ことは、決して楽しいことばかりではないのである。