『利他・ケア・傷の倫理学』
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『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学』近内悠太著
[レビュアー] 為末大(Deportare Partners代表/元陸上選手)
「善意の空転」防ぐには
窮屈な時代になった。言いたいことも言えない。何かあればすぐ批判される。当たり障りのないことだけを言い、狭い範囲で生きている感じがする。そういう声を聞くことが増えた。
〈自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること〉
これが本書における利他の定義である。
自身の身体であるパンを差し出すアンパンマンの利他性がなぜ成立したかと言えば、食べるという生存に関わるからだ。だが社会が豊かになり、価値観が多様化すれば、人それぞれ大切にするものも違ってくる。すると良かれと思って行ったことが、誰かを傷つけることもある。
〈多様性の時代とは、僕らの善意が空転する時代〉という著者の指摘は鋭い。
それでも安全なものがある。それは道徳だ。道徳とは時間を経て多くの人々に承認されてきた共同体の規範だ。だから道徳の中にいる間は批判されない。しかし、もし同じ道徳だけで皆が生きるなら、それこそがまさに多様性を欠如させてしまう。道徳のように誰もが大切にしていることを大切にするのは簡単かもしれないが、目の前の人が大切にしているものと自分の大切にするものとが真っ向から対立する時、葛藤が生じる。多様性の時代とは、この葛藤があちこちで生じる時代だと言えるだろう。
この葛藤の末に道徳を飛び出し、自らの意志に基づく倫理、あるいはケアの概念から、利他を見いだそうとしている。
可能であれば著者に問うてみたいことが一つある。この葛藤が国家の間で起きた時、宗教の間で起きた時、私たちは利他を行うことがいかにして可能なのだろうか。今まさに世界では違う種類の大切なもの同士がぶつかり合っている。
著者は一作目で贈与を書き、本書で利他を書いた。三作目は諦めを想定しているそうだ。この諦めは赦(ゆる)すに当たるかもしれない。葛藤と対立の時代の後には必ず赦しが求められるはずだ。(晶文社、1980円)