子連れの母親を「授乳始めるんじゃないか」と揶揄…炎上したラーメン評論家を待ち受ける驚きの復讐劇 柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』試し読み

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過去のブログ記事が炎上中のラーメン評論家、夢を語るだけで行動には移せないフリーター、もどり悪阻とコロナ禍で孤独に苦しむ妊婦、番組の降板がささやかれている落ち目の元アイドル……。

いまは手詰まりに思えても、自分を取り戻した先につながる道はきっとある。この世を生き抜く勇気がむくむくと湧いてくる、全6篇からなる短編集『あいにくあんたのためじゃない』(柚木麻子・著、新潮社)。

本書に収録されたうち、「めんや 評論家おことわり」を一編丸ごと公開いたします。

めんや 評論家おことわり

 全方位型淡麗大航海時代の幕を切ったと言われる、今年で創業五十年「中華そば のぞみ」は、かつて家系ラーメン激戦区だった三軒茶屋駅南口から歩いて十五分の場所にある。商品は看板メニューの中華そばと餃子、ライスのみ。しかし、仏ミシュラン二つ星を獲得した二年前から行列は絶えず、それはランチタイムから閉店二十一時まで途切れることがない。

 創業当時からの暖簾は色褪せ、かろうじて「のぞみ」の文字が読み取れる程度。木枠に磨りガラスをはめ込んだ引き戸は歴史を感じさせる風合いを醸し出しているが、店内に一歩足を踏み入れると、二〇二三年という時代がそこかしこに反映されている。建築家・片山朝陽(かたやまあさひ)氏の意匠による、モールテックス施工の艶消ししたダークグレーで統一された和モダンな内装は徹底したバリアフリー。おむつ交換台完備、オールジェンダートイレの導入は業界いち早い。

 店舗面積二十坪の店内には、家族で座れるテーブル席が四卓、ベビーチェアはもちろん、車椅子対応のローカウンターも完備され、いまだおさまらぬコロナ感染症対策として、一分に一回の換気設備も万全だ。

 五年前の改装を機に、専用駐車場も併設され、遠方からのファンは嬉しいかぎり。外国人観光客への英語での丁寧な接客は、ニューヨーク・タイムズのグルメ評でも絶賛されている。

 なんといってもその人気の秘密は、数種類の地鶏によるボディにカツオベースの魚介を合わせた無化調の超クリアスープにある。たゆたう黄色の麺に、トッピングはナルト、煮卵、チャーシュー、メンマ、ネギ。ややオーソドックスすぎるビジュアルながらも、突き抜けた王道の徹底ぶりは、むしろ、若い女性に「エモい」と評判で、著名人のインスタ投稿をきっかけに新たな世代のファン層を得た。

 淡麗なスープに絡みやすい、ウェーブの細かな自家製中細ちぢれたまご麺はコシ、喉をすべっていく滑らかさともに申し分なく、一本一本の芯が光り、厳選された小麦粉に微配合された全粒粉の香ばしさ、後味に柚子の皮がかすかに香る。身体が疲れていても最後の一滴まで飲み干せる、滋養たっぷりの穏やかな味わいは決して胃にもたれることがない。

 しかし、国内ラーメン通ばかりか海外ファンをも唸らせるのは、一見して「丸い味」の先にある、天界の迷路に迷いこんだような、複雑な旨味と凄みのあるコク、最初は調和がとれているかに感じられるそれぞれの素材の尖り方だ。淡麗系の味わいでありながら、中毒性が高く、必ずもう一度食べたい、と思わせるスープの秘密については日々、ネットで論争が繰り広げられている。

 業界では珍しい二代に亘る女性店主、柄本希(えもとのぞみ)氏はこう語る。

「刻一刻とお客様の好みは変わりますから、先代の母から受けついだレシピをベースに、研究や食べ歩きを重ね、私どもも勉強中で、ほぼ毎日、配合を微妙に変えています。例えば、現在はホタテですが干し牡蠣を導入していた時期もあるんですよ。スープの透明度を優先したくて、鶏だけにこだわった時期もありますが、数年前から豚ゲンコツも足しています。一晩低温熟成させて脂を取り除くのもポイントです。小さなお子様も多いので、意識しているのは『嫌味にならない甘み』ですね。下仁田ネギとフランス産ポロネギを併用したり、どちらか一方にしていたこともありますが、そこから玉ねぎに切り替え、林檎を足したあたりで、我々の方向性は決まりました。ブランド品には極力頼らないようにしています。『全方位型淡麗』と呼んでいただけているのはありがたいのですが、一番気をつけているのは、単調にならないこと。全方位型であるほど、驚きと仕掛けは必ず重要です。チャーシューも流行りの低温調理法に切り替えていた時期もあります」

 あくまでも謙虚な「のぞみ」だが、その強みは先代からのファンやマニアも惹きつけた上で、家族連れやライトなファン層を取り込んだ点だ。現在は、健康志向のニーズに応えるため、ふすまを使用したローカーボ麺の開発にも意欲を燃やしている。その姿勢は柄本氏の時代を見据える力による。

「私どもの願いは、一人でも多くのお客様に、ああ、美味しかった、ああ、いい時間が過ごせた、と感じていただくことにあります。女性一人のお客様も入りやすい清潔で安全な店づくりをまず、第一に心がけております。コロナウイルスの感染拡大もまだおさまらず、物価高が止まらない今、せっかく外食していただけるのですから、小さなお子様連れの方、障害がある方、ジェンダーアイデンティティや外見を理由にこれまで外食で不快な思いをされたことがある方、ご高齢の方にも是非楽しんでいただきたい。お店では何より、ほかのお客様へのご配慮を第一にお願いしたいですね。ラーメンの麺やスープを残す、残さない、すすり方、注文方法は私どもにはどうでもいいことです。どなたも思い立ったらすぐに万全の体調で気軽に外食ができる方ばかりとは限りません。時間を作り出したり、節約したり、そうしてやっと席に座れた、という方も大勢いらっしゃいますから」

 必ずぶつけられるであろう「ラーメン評論家の入店おことわり」の噂について水を向けると、柄本氏はさらりとこうかわす。

「こちらとしては余程のことがないかぎり、入店おことわり、ということはしないんですよ。ごく一部の、周りのお客様の迷惑になる方にのみ、退店をお願いしています。はっきり申し上げますと、他のお客様を勝手に撮影しネットにあげること、不必要な声がけ、店員へのセクシャルハラスメントや調理接客が滞るほどの質疑といった行為を、私どもが認識する範囲内ですが、これまでされてきた方はNGとさせていただいております。目の前でそういった行為があった場合も同様に退店をお願いしています。そういった方々が、たまたま、著名なラーメン愛好家や評論家であったことが多い、というだけなので、どんな方にも来ていただきたいですし、厳しいご意見も、私どもはありがたく受け止めるつもりです」

 愛好家のマナーに静かに釘を刺すことも忘れない。変わり続ける「のぞみ」であるが、今変わるべきは、我々愛好家側の意識なのかもしれない。

 春には、ビーガン対応のオール植物性素材にこだわった「ネオ中華そば」が新メニューに加わるとのこと。変わり続ける「中華そば のぞみ」からますます目が離せない。

ライター 原田萌実(はらだもえみ)

柚木麻子
1981年東京生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。ほかの作品に『私にふさわしいホテル』『ランチのアッコちゃん』『伊藤くん A to E』『本屋さんのダイアナ』『マジカルグランマ』『BUTTER』『らんたん』『ついでにジェントルメン』『オール・ノット』などがある。

※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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