38歳でパリの名門料理学校を卒業した料理ライターがスーパーで出会った「ダメ女」の買い物カゴの中身とは?『「ダメ女」の人生を変えた奇跡の料理教室』試し読み

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単行本発売時に大反響を呼んだ、キャスリーン・フリン(村井理子訳)『「ダメ女」の人生を変えた奇跡の料理教室』が文庫化。「なぜか泣ける料理本」として話題を読んでいる一冊です。

38歳で名門料理学校を卒業した著者は、ふとしたきっかけから女性たちに料理を教えることに。自分らしい料理との付き合い方がわからず、自信が持てなかった年齢も職業もバラバラな10人とともに笑い、一緒に泣き、野菜を刻み、丸鶏を捌いていたら、彼女たちの人生が変わり始めた! 買いすぎず、たくさん作り、捨てないしあわせが見つかる、一冊で何度も美味しい料理ドキュメンタリーの冒頭をお届けします。

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いちばんうまく教えられるのは、自分が最も学ぶべきことについてである。――リチャード・バック『イリュージョン』

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 スーパーで尾行なんてありえない。

 買い物客のカートの中身を盗み見るクセがあるのは認める。中身を見れば、その人となりがわかるとしたら、あなただってするでしょ?

 山ほどのネコ缶、レタス、ステーキのファミリーパックと女性誌をカートに放り込んでいる腰の曲がった白髪の女性の家では何が起きていると思う? タトゥーの入った腕にぶら下げたカゴにベジタリアンホットドッグのパックを入れ、ヘッドフォンの向こうの世界なんて関係ないわよって雰囲気で、ばっちりメイクした若い女性の場合はどう? オーガニック野菜と高価なオリーブ、シャンパンのボトルが4本入ったカートを押しながら、輸入チーズの棚をのぞき込んでいる、は完ぺきに手入れ済みのエレガントな紳士の場合は?

 スーパーのカートには物語が詰まっている。

 いつもと同じ、なんの変哲もない火曜日の夜のことだ。ツナ缶が並んだ通路付近の光景を見て、私は凍りついた。通路の真ん中に置き去りにされたショッピングカートには、乾燥パスタミックスが2ダース、キャセロール〔ホーローなどの耐熱鍋(なべ)に野菜や肉を入れて、そのままオーブンで焼く鍋料理のこと。アルミの箱に盛りつけられた状態で売っている〕、米、うさんくさいソースが入った瓶、袋入りのスタッフィング〔肉用の詰め物〕が、めったやたらに投げ込まれていた。カートは半分ぐらい埋まっていたというのに、ちゃんとした食品は何ひとつ入っていない。カートの中身に目を奪われて立ちつくしていると、ナス色のフリースを着た大柄な30代後半の女性が、そのカートを自分の方に引っ張った。幼い娘が待ちきれずに彼女の周りをぐるぐると走りながら、小さな声でレディ・ガガを歌っていた。

 このままこの人についていって、何を買うか観察したら失礼かしら?

 小さなカゴを手にした私は、彼女を尾行して、その行動を盗み見ることにした。通路に沿って並べられた、特に買いたくもない商品を見るフリをしながら、彼女がカートに、ワッフル、ピザ、数種のTVディナー〔肉、炭水化物、野菜がセットになっている冷凍食品〕、チキンパイ、ファミリー向けマッシュポテト、ソース付き牛肉のパックを、次々と投げ入れる様子を観察した。

 精肉売り場に到着するまでに、彼女は私の存在に気づいていたと思う。冷気に当たらないように両肩を抱いて、漂う塩素のにおいを吸い込まないように注意しながら、私はぎこちなく彼女の動きを視界の隅でとらえつつ、棚の端で巨大なファミリーサイズの冷凍ハンバーグを彼女が手に取るのを確認した。彼女は、自分のカートを私のいる方向に少し押し出した。そのとき、私はプラスチックのパックに入った七面鳥の肉を吟味するフリをしていた。「のむね肉って最近すごく高くなったと思わない? ありえないわ」と彼女は大きな声で、誰にともなく話しかけた。そして、気だるそうに冷凍ハンバーグのパックをカートに放り込んだ。

 話しかけるチャンス到来だ。私は「丸鶏はセールだったけどね」と声をかけた。「450グラムで99セントぐらいだったかな」彼女はクスクスと笑った。「ああ、ありがと。でも、鶏を丸ごとなんてどうやって料理したらいいかわかんないわよ」

 私は、はっとした。彼女が必要としている情報は、パリの有名料理学校で1年みっちり修業した私が、鶏の骨を抜いたり、肉に食材を詰めまくった私が、すべて持っている。その瞬間、理由はわからないけれど、私はどうしても彼女にそれを教えたくなった。「鶏肉のさばき方を教えてくれる人がここにいるわよ。一緒に行きません?」と私は言った。彼女は、「え? あ、ううん、遠慮しとくわ」と答えた。スーパーの通路を20分も尾行してきた赤の他人の私に対する答えとしては、当然だった。

 しかし不思議なことに、七面鳥のくん製ソーセージの棚の前に立つ私は、怪しいセールスレディには見えなかったようで、彼女は肩をすくめると「そうね。じゃ、行こうかな」と言ったのだ。

「もちろん。肉のさばき方ぐらい、いつでも教えますよ」と、丸鶏を手渡す私に、精肉コーナーで働く男性は言った。女性はガラスケース越しに彼の大きくて白いまな板を見つめていた。彼は丁寧に丸鶏を切り分けていった。手を止め、彼女がわかりやすいように手順を示した。作業が終わると、彼はきれいな包み紙に鶏肉を包んでくれた。

「それで、その丸鶏が全部でいくらだった?」彼女は聞いた。

 彼は値段シールを見て「ええと……、今日はセールだから5ドル20セントってとこですね」

「それじゃあ、その丸鶏を、向こうに並んでいるむね肉みたいに、切ってパック詰めにしたら、いくらになるの?」彼女は肉の並んだケースを指さして言った。

 彼はそちらに目をやると、ぼそぼそとつぶやきながら、指を使って数えはじめた。「そうだなあ、むね肉が450グラムで5ドル99セント。もも肉が2ドル29セントだから、全部で10ドルぐらいですかね」

「ちょっと、うっそ!!」彼女は叫んだ。「それじゃあたし、いままで倍の値段を払って鶏肉を買ってたってわけ? ちょっと、ちょっと!」彼女は大笑いした。

 彼はウィンクして、さばいたばかりの新鮮な鶏肉を彼女に手渡した。彼女の手に、その鶏肉はずっしりとした重みを感じさせたようだった。彼女はしばらく考え込んでいた。「どうしたの?」私は聞いた。

 彼女はあたりを見回すと、私に体を寄せてささやくようにこう言った。「どうやって料理したらいいか、わからなくて。むね肉だったらわかるんだけど」彼女は恥ずかしそうに肩をすくめた。「でも、ありがとう。トクしちゃった」

 彼女は、娘を連れ、カートを押して去りつつあった。私は彼女に声をかけた。残りの鶏肉の調理方法を告げぬまま、このまま行かすことはできない。たまたまではあったが、私が初めて書いた本のペーパーバックがこのスーパーで売られていた。私は1冊取ってくると、鶏もも肉とマスタードの蒸し煮のレシピ、それからチキンスープのレシピが書かれたページを開いた。

 最初、彼女は私の本だと信じてくれなかった。私は証拠に運転免許証を見せて「あなたに本を売ろうなんて思ってないですから」と説明した。「これ、もらって欲しいんです。うまく説明はできないけど、何かお手伝いできないかなって思っちゃって」

 それから1時間かけて、私は彼女を連れて店内を歩いて回った。本の余白にメモを書き込み、私がバッグの中に常に入れているメモパッドに新しいレシピをっていった。なぜ大量の箱入りの食品や缶詰めを購入したのか、彼女と話し合った。根気よく、ゆっくりと説得して、カートから箱詰めの商品を棚に戻してもらい、その箱詰め商品がまねしている本物の食品をカートに入れていった。常温保存可能なインスタントのポットロースト〔かたまりの肉を鍋でじっくり蒸し焼きにする調理法〕は1・5キロの牛肉となった。しめくくりは野菜コーナーで、ポットローストと同じ金額で10人以上をもてなす量の野菜を買うことができたのだ。

「本当に、なんてお礼を言ったらいいのかわからなくて」会計に向かうとき、彼女は真剣な表情で言った。私は約束通り自分の本を購入し、彼女に手渡した。「最初、あなたのこと、なんだかおかしな人だって思っちゃった。でもあなたは、パンクしたタイヤを直してくれるワンダー・ウーマンだったのね」彼女も娘も、別れぎわに私に熱心に手を振ってくれた。

 この日のできごとを、私は長い間忘れることができなかった。それまで気づかなかった、私自身の中にある研究心を駆り立てるできごとだったのだ。この素晴らしい出会いが私の人生を変えるだろうと、なぜか確信した。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

Book Bang編集部
2024年4月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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