教養としてのイギリス貴族入門
2023/04/07

右翼団体の老人から暴行……女王批判で物議を醸した評伝作家の素性 オルトリンガム男爵家のルーツに迫る イギリス貴族の栄枯盛衰(9)

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『ナショナル・アンド・イングリッシュ・レヴュー』(左)に寄稿した「今日の君主制」が物議を醸した、2代オルトリンガム男爵ジョン・グリッグ(“Peer Raises A Storm”『British Pathe』より)

日本でも大人気のTVドラマ「ダウントン・アビー」では、広大な屋敷で執事や召使いに囲まれ優雅に暮らすイギリス貴族が登場する。本記事では、『貴族とは何か』の著者である君塚直隆さんが、実在するイギリス貴族の中から代表的な名家を取り上げ、その栄枯盛衰を解説します。第9回は、過激な女王批判で物議をかもした文筆家を輩出した「オルトリンガム男爵家」――。

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 1957年8月6日の夕方。『グラナダ・テレビ(現在のITV)』でのインタビューを終えて帰宅しようとする青年貴族の前に、いきなり老人が立ちはだかった。すると老人は青年の横っ面を張り倒したのだ。すぐに老人は近くにいた警察官に取り押さえられ、事態はそれ以上発展するようなことはなかった。男は64歳で極右団体「帝国愛国者連盟」のメンバー。そして彼に張り倒された青年は、オルトリンガム男爵(Baron Altrincham)ジョン・グリッグ(1924~2001)であった。なぜイギリスの貴族が右翼団体の老人から暴行を受けなければならなかったのか。

皇太子や首相の知遇を得た父エドワード

 オルトリンガム男爵位は、殴られたジョンの父エドワード(1879~1955)が叙せられたものだった。インド高等文官の一人息子としてマドラスで生まれた彼は、帰国後に名門ウィンチェスタ校からオクスフォード大学に進み、ジャーナリズムの世界に入る。いくつかの新聞で植民地関係の記事を扱うが、アスター家とゆかりの深い編集者ジェームズ・ガーヴィンの下で補佐役を務めたこともあった。

 第一次世界大戦(1914~18年)の勃発とともに近衛歩兵第一連隊に入り、フランスで従軍したが、このとき別の隊を率いていたのがウィンストン・チャーチル中佐。元海相のチャーチルがのちに「戦車」をこの戦場で考案したことは、拙著『悪党たちの大英帝国』(新潮選書)第7章をご覧いただきたい。エドワード自身も終戦までには中佐に昇進し、戦功十字章や殊勲章などを授与されている。この連隊内で知り合った人物が、皇太子でのちの国王エドワード8世だった。戦後は皇太子に随行して、カナダ(1919年)とオセアニア(20年)を廻る。

 帰国後はときの首相デイヴィッド・ロイド=ジョージの私設秘書官に就き、1922年の総選挙で自由党の庶民院議員に当選した。翌23年に保守党の大物政治家イズリントン男爵の一人娘ジョーンと結婚し、2人は2男1女を授かることとなる。

ケニア総督や陸軍政務次官を経て男爵に

 その2人の運命を変えたのが、結婚から2年後の1925年のことだった。エドワードがケニア総督に任命されたのである。新聞記者の時代から「植民地問題の専門家」とされた彼の実力を発揮できる舞台となった。グリッグ総督は、現地人に対して威圧的にはならず、彼らが充分に教育を受け、様々な経験を積まない限り、独立や自治権は難しいとの考えを強めるようになっていた。1928年に彼はセント・マイケル・アンド・セント・ジョージ勲章の勲二等に叙せられ、「サー・エドワード・グリッグ」となる。

 一方、妻のジョーンのほうは、元々父の下で様々な福祉活動に関わっていたが、ケニアでは貧しい人々や女性、子供たちのための活動に邁進した。特に看護師の育成、産婦人科医の充実を目的に「レディ・グリッグ福祉連盟」が設立され、それはアフリカ大陸でも最大級の福祉団体へと成長していく。

 こうした活動がイギリス本国政府の目にとまり、グリッグはインド総督への就任を打診されるが、夫妻ともに身体がそれほど強くはなくなっていたことを理由に辞退した。帰国したグリッグは保守党に鞍替えして、マンチェスタ市の一角を占めるオルトリンガムの選挙区から出馬し、庶民院議員に返り咲いた。第二次世界大戦(1939~45年)が始まると、1940年からは陸軍政務次官となり、終戦の年に「オルトリンガム男爵」に叙せられた。戦後は政界からは離れ、『ナショナル・レヴュー』誌を買収して、自ら編集にもあたる。そして長い闘病生活ののちに1955年に76年の生涯に幕を閉じるのである。

政治評論家となったジョン

 父の死により第2代オルトリンガム男爵となったのが長男ジョンであった。イートン校から、父がかつて所属した近衛歩兵第一連隊に入り、第二次大戦中は国内の警備にあたり、戦後はオクスフォード大学へと進んだ。卒業後は、父が経営する『ナショナル・レヴュー』に編集者として入り、様々な論稿を発表した。この間、庶民院議員選挙に2度立候補するがいずれも落選し、父のような議員活動はできなかった。

 そのような矢先に父が亡くなり、貴族院議員になる資格ができた。ところがジョンは、世襲貴族制度には反対で、貴族院の登院も再三拒否し、一度として議場に入ったことがなかったのである。そして父から受け継ぎ、名称も『ナショナル・アンド・イングリッシュ・レヴュー』に変更した雑誌に次々と政治評論を書いていった。

過激な女王批判で暴行を受ける

 こうした論稿のひとつが1957年8月号に掲載された「今日(こんにち)の君主制(The Monarchy Today)」だった。

 グリッグによれば、第一次大戦を国民とともに戦い、あらゆる階級から支持を集めていたジョージ5世とは異なり、孫のエリザベス2世やマーガレット王女は社交界デビューを果たしたばかりのお嬢様気質が抜けていない。その理由は旧態依然とした上流階級の教育にどっぷりと浸かり、周囲を上流階級出身のものたちで固めているからだ。女王はもっと多種多様な背景を抱えた人々を助言者や友人として持つべきなのである。

 さらにグリッグの鋭い舌鋒は、女王が公式の場でおこなうスピーチの話し方にまで及ぶ。ジョージ5世でさえスピーチの原稿は自身で書かず、ただ読み上げるだけだったかもしれないが、それでも彼自身の言葉として自然に話されていた感じがした。しかるに、現在の女王は違っている。彼女の話し方はまるで堅苦しくてうぬぼれ屋の女学生で、ホッケーチームのキャプテンか監督を務め、近々堅信式(キリスト教の典礼で洗礼のあとに自らの信仰をかためる儀式)を迎えるような輩のそれにすぎない。それゆえ彼女自身の独立した特色のある個性がまったく現れていない。

 この論稿は発表と同時に大変な反響を呼んだ。当時のカンタベリ大主教(イングランド国教会最高位の聖職者)ジェフリー・フィッシャーはグリッグを痛烈に批判したが、女王秘書官補を務めるマーティン・チャータリスは密かにグリッグを呼んで助言を求めたほどだった。

 そして論稿が評判を呼んだためにテレビ局に招かれて生出演したあとに……冒頭で紹介したとおり、帝国愛国者連盟のメンバーに横っ面を張り倒されたわけである。現行犯で逮捕された男はわずか20シリング(1ポンド)の罰金を支払うだけで済まされた。

爵位を放棄し、評伝作家として活躍

 オルトリンガム男爵は、決して君主制を批判していたわけではない。むしろ君主制は時代に沿ったかたちで変わらなければ消滅してしまうとの警鐘を鳴らしたのである。事件から6年後の1963年、『貴族とは何か』第3章でも述べたが、貴族法により一代に限って爵位を放棄できるようになり、トニー・ベンに続いてグリッグも「オルトリンガム男爵位」を彼一代だけ放棄した。爵位は彼の死後に弟のアンソニーの家に引き継がれることになった。

 政治家になることはできなかったグリッグだが文筆業は超一流だった。特に人物の評伝に定評があり、英国初の女性議員として知られるナンシー・アスターの伝記もある。しかし彼の名声を不動のものにしたのは、かつて父が仕えたロイド=ジョージの全4巻に及ぶ評伝であろう。その第3巻(1910年代前半を扱った)では優れた歴史書に与えられるウルフソン賞も受賞した。第4巻の最終章を書き終える前にグリッグは亡くなるが、それを仕上げたのはロイド=ジョージ自身のひ孫にあたる歴史家のマーガレット・マクミランであった。

■本記事は連載「教養としてのイギリス貴族入門」としてブックバンで公開。君塚直隆さんが実在するイギリス貴族の中から代表的な名家の栄枯盛衰を綴ります。

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君塚直隆(関東学院大学国際文化学部教授)
1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在:日本人は「象徴天皇」を維持できるか』(新潮選書/サントリー学芸賞受賞)、『エリザベス女王』(中公新書)、『物語 イギリスの歴史』(中公新書)、『悪党たちの大英帝国』(新潮選書)、『貴族とは何か:ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)他多数。

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提供:会員制国際情報サイト「Foresight(フォーサイト)」

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