【自著を語る】野村克也『野村の遺言』

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野村の遺言

『野村の遺言』

著者
野村 克也 [著]
出版社
小学館
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784093885133
発売日
2016/09/26
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【自著を語る】野村克也『野村の遺言』

[レビュアー] 野村克也

なぜ、遺言なのか

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 このほど、『野村の遺言』なる自著を上梓した。タイトルを提案されたときは、正直、面食らわないでもなかったが、私も齢八十を超えた。これは日本プロ野球の歴史と同じである。本誌でも「野村の日本プロ野球史」を連載している。ともに戦った戦友が次々と鬼籍に入るなか、いまのプロ野球界に言うべきことを遺しておくのも義務だと考え、私の専門と言えるキャッチャーについて記してみた。

 捕手論を書こうと思ったのには理由がある。

「プロ野球のレベルが低下しているのではないか?」

 近年、そう感じることが多い。選手個々の運動能力やパワー、技術はわれわれの時代より進化している。にもかかわらず、私にはそのように感じられてならないのである。一球ごとに変わる状況や選手・ベンチの心理を観察・洞察し、最善の作戦を選択して実行する──そこに野球の本質はある。すなわち、投げて打って走るだけのスポーツではない。だからこそ弱者でも強者を倒すことができる。野球は「頭のスポーツ」なのだ。

 ところが、いまのプロ野球は、ただ力いっぱい投げ、打ち、走っているだけ。それが「力対力の勝負」だと信じて誰も疑わない。だが、そこに生じるのは投げ損じ、打ち損じの結果に過ぎない。だから、戦力の優劣がそのまま勝敗に表れてしまう。そのことが私をして「レベルが低下している」と感じせしめるのである。

 そうなってしまったのには、キャッチャーにも大きな責任がある。「キャッチャーは守備における監督の分身である」──私はよく口にする。野球は一球ごとに「間」が生じる。そのあいだにキャッチャーは、イニング、点差、アウトカウント、ボールカウントといった諸状況はもちろん、対戦バッターのタイプや性格、心理状態などあるゆる条件を考慮したうえで、監督に成り代わってピッチャーと野手に指示を出す。つまり、キャッチャーは試合の“脚本家”なのである。

 ダメな脚本からいい映画が生まれることは絶対にないという。野球も同じ。キャッチャーが野球の本質を理解せず、行き当たりばったりの脚本を書いていては、いい試合など生まれるわけがない。すなわち、野球のレベルが低下したと感じられるのは、キャッチャーの能力が低下したからと言ってもいいのである。

 事実、近年は「名捕手」と呼ばれるキャッチャーが非常に少なくなった。キャッチャーを固定しているチーム自体、多くはない。そのうえ、外野手出身の監督が多くなったことで、キャッチャーの役割が軽視される傾向が加速しているように思う。経験豊富なベテランのキャッチャーや成長が期待できそうな若手であっても、「負担を減らすため」「打撃を活かすため」という理由で、一塁手や外野手として起用されるケースも少なくない。

 こうした潮流は、“投げ損じ、打ち損じ”の野球がはびこるのを助長するものであり、気合と根性が重視されるかつての精神野球の時代に戻りつつあるということでもある。そして、それが意味するところはとりもなおさず、プロ野球のレベルがさらに低下していくということにほかならない。こうした危機感が私に“遺言”を書かせたと言ってもいい。

 本書で私は、「キャッチャーとは何か」「名捕手の条件とは何か」ということからはじまって、配球の狙いや組み立て方、強打者の攻略法、さらにはプロとしての心構えまで、半世紀以上にわたってキャッチャーについて考えてきたこと、実践してきたこと、教えてきたことを、具体的なエピソードも交えながらあますことなく述べたつもりである。先に述べた通り、キャッチャーは監督の分身と言っても過言ではないから、一種のリーダー論、組織論としても読めるのではないかと思う。これでキャッチャーに関しては、もはや言い遺すことはない──そう考えている。

小学館 本の窓
2016年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

小学館

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