戦後、「歌舞伎町」を作ったのは、実は台湾人だった

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戦後、「歌舞伎町」を作ったのは、実は台湾人だった

[レビュアー] 大竹昭子(作家)

 先日、久しぶりに新宿・歌舞伎町に行ったら、週末ということもあって、身動きのとれないほどの混みようで、しかも若者と外国人がほとんどなのに驚いた。これほど広大な歓楽地は、世界中を見まわしてもめずらしいだろう。

 まるでずっと昔からあるような顔をしている歌舞伎町だが、戦前にはその名称すらなく、大きな施設といえば女学校(後の都立富士高)と都バス車庫があるくらいで、現在の姿を彷彿させるような要素は片鱗も存在しなかった。それがどのようにしていまあるような歓楽街になったのかを、当時を知っている台湾人に取材したものである。

 歌舞伎町には台湾人の経営するビルや店が多い。たとえば一九五〇年代末のコマ劇場前の広場は、本書の地図によればコマ劇場とミラノ座以外は、南側も北側も台湾人経営のビルで占められている。

 彼らの多くは戦前に日本にやってきた留学生で、終戦後、帰国できずに留まり、西口の闇市マーケット(のちの思い出横丁)で小商いをはじめた。米占領下で日本人が手を出せなかった統制品を扱える利点を活かし、軍購買部からの横流れ品を売って財力をつけ、やがてマーケットが整理されると、まだ土地に余裕のある歌舞伎町へと流れ込んでいったのだった。情報を交換し、無尽講で金を都合しあうなど、彼らは足を引っ張りあうことなく、互いに助けあって商売を大きくしていく。

 華僑というと中華料理店が思い浮かぶが、歌舞伎町で彼らが手がけたのがモダンな商売だったのがおもしろい。スカラ座、らんぶる、でんえんなどの名曲喫茶を開いたのは彼らだし、のちの歌声喫茶のモデルとなるカチューシャを作ったのもそうだ。昭和の新宿文化を知るものにとっては、懐かしい店名がつぎつぎと登場し、そのどれもに台湾人が関わっていたのを知り、驚きの声をあげずにいられない。

新潮社 週刊新潮
2017年11月2日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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