『カルピスをつくった男 三島海雲』
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「初恋」のきた道
[レビュアー] 山川徹(ノンフィクションライター)
カルピスに特別な関心を抱いたのは、三十年前の一九八八年。十一歳のころだった。
母につられて足を運んだ山形市の映画館で『火垂るの墓』を観た。
砂浜で遊ぶ兄妹に在りし日の母が声をかける。
「清太さん、せっちゃん、おいで! お腹空いたやろ。カルピスも冷えてるよ」
カルピスは五十年以上前からあって、戦時中に同世代の子どもたちが飲んでいたのか……。主人公の清太と節子が平和だった時代を回想するシーンの「カルピスも冷えてるよ」の一言に、十一歳の私は思った。
カルピスが、半世紀の歳月を一瞬で縮めた。感情移入し、物語に没入した。二人の悲劇とともに記憶に刻まれたのが、カルピスが戦時中も子どもたちに飲まれていたという事実だった。
あの経験がなければ、中国・内モンゴル自治区の草原にまで、カルピスのルーツを追おうとなんて考えもしなかっただろう。
『火垂るの墓』から約二十年後、私はカルピスをつくった三島海雲という人物を知った。仕事で会った学者のプロフィールに並ぶ〈三島海雲学術研究奨励賞〉という経歴に目が止まり、何気なく調べてみたのだ。
三島は、一八七八年に現在の大阪府箕面市にある浄土真宗寺院の長男として生まれていた。日露戦争前の一九〇二年に彼は日本語教師として中国大陸にわたる。
その後、雑貨などを売買する会社を立ち上げ、やがて日本陸軍から軍馬の買い付けを依頼されたり、モンゴル王公から銃の仕入れを頼まれたりして、中国とモンゴル高原を行き来した。
草原を旅するなかで、遊牧民のソウルフードである乳製品を口にした三島は、直感する。過酷な自然のなかで力強く生きる遊牧民の活力の源が、この乳製品だ、と。
三島は子どものころから病弱で、医師に長くは生きられないと言われた。だからなおさら乳製品が持つ力に魅せられた。その効果を実感した三島は、乳製品を通して、国民を健康にしたいと考えるようになる。
清朝崩壊後、大陸での事業を断念して帰国した三島は、草原で親しんだ乳製品の商品化を試みる。そして、いまから九十九年前。一九一九年にカルピスが誕生する。甘酸っぱい未知なる味を、三島が「初恋の味」と名付けると、それは瞬く間に国民飲料になった。
二〇〇七年のカルピス社の調査によれば、日本人の九十九・七%がカルピスを飲んだ経験を持つという。
日本人なら誰もが知るカルピスの知られざる物語の奥深さ、ダイナミックさに、私の心はわしづかみされた。いつか三島が辿った草原の旅路を百年前と同じように、馬で旅してみたいと夢想するようになっていた。
私が三島の足跡を本格的に追おうと考えたのは二〇一〇年末のことである。けれどもその数カ月後に東日本大震災が発生した。二〇〇四年の新潟県中越地震をきっかけに自然災害をテーマにしてきた私は、カルピスの取材を中断して、すぐに東北へ向かった。
被災地で既視感を覚えた。デジャブの正体はすぐに分かった。三陸の地元経営者たちが被災者支援に奔走する姿に、三島と関東大震災のエピソードが蘇ったのである。三島は、巨大地震直後、自らトラックに乗り込んで水不足で苦しむ被災者にカルピスを振る舞ったという。
関東大震災での救援活動は、三島が唱えた国利民福の実践だった。国利民福とは、企業活動を通して、国を富ませるだけでなく、何よりも国民を豊かに、幸せにしなければならないという経営理念である。
格差や分断が広がり、社会や他者を顧みる余裕は奪われてしまった現代にこそ、問い直すべき思想なのではないかと思う。
ひとりの僧侶として、そして経営者として、国民の健康と幸せを願った三島は一九七四年に大往生を遂げる。
九十六年の人生を書き終え、私の裡うちに残ったのは当たり前過ぎる実感だった。
三島が経験した日露戦争も関東大震災も太平洋戦争も高度成長も現在につながる歴史である。ひとりの人間の足跡が、いまを知る手がかりになるのだ、と。