<東北の本棚>少女2人の苦難の道程
[レビュアー] 河北新報
戊辰戦争で敗れ、下北半島(青森県)に移封された会津藩。そこで寒さと飢え、疫病に悩まされ、多くの犠牲者を出したことはよく知られる。本書は、流浪の渦中にいた少女2人の体験記をたどり、会津藩の苦難の道程を改めて浮き彫りにする。
1人は光子(1861~1945年)。250石取りの藩士・鈴木重光の娘で、遺族が残した小冊子の原文を掲載、解説を加えた。
鶴ケ城に新政府軍が押し寄せたとき、光子は7歳だった。重光は緒戦で戦死、遺体は城内の空井戸に葬られた。残されたのは祖母と母親、伯母など女ばかりで、新潟港から蒸気船で下北へ向かった。祖母は寒さに耐えられず死去、光子らは海岸に流れ着く昆布を拾い、コメとまぜて食べた。「『ひもじくてたまりません』と言うと、母に大変しかられた」と記す。10年後、会津に戻った光子が母親と空井戸を傘の先で突き、父親の遺骨を掘り起こす場面は涙を誘う。城内は鳥獣や浮浪人のすみかになっていた。戦争の後、荒れ放題になっていた鶴ケ城の様子を生々しく描写している。
光子は横浜に居を移した。柔和だが、礼を欠くときは厳しく叱責、「曲がらず、おもねらず」の会津女性だった。84歳の長寿を全うした。
いま1人は神谷きを(1868~1956年)。250石取りの藩士・北村豊三の娘。豊三は青森県知事を務めた北村正〓氏の曽祖父でもある。きをは、戊辰戦争の年に生まれ、牧場経営を志した曽祖父と共に八戸、三沢と移る。嫁いで北海道へ、最後は京都に住む。わが国初めて導入された牧場経営を間近に見た人。また、「戊辰の役朝敵の汚名を着せられたのがどんなに口惜しいことだったかしれません」とよく語り、口述記録を残していた。
著者は1933年、むつ市生まれ。元小・中学校教員で、郷土史研究家。
津軽書房0172(33)1412=1836円。