『君が異端だった頃』
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この小説こそほんとうの批評である
[レビュアー] 吉川浩満(文筆業)
人と作品のどちらが大きいか? そりゃあ作品に決まっている。小説の愛読者ならそう答えるだろう。
だが、私小説の場合には事情が異なる。すべては主人公の生活と意見というプリズムを通して語られる。作者自身の記憶と身体が前面にせりだしてきて、文学作品など小さな点ほどの存在になる。図と地が反転する。私は鍼灸院の壁に貼ってある鍼灸経絡経穴図を思い浮かべる。
島田雅彦の新作は、若き日の煩悶から文壇デビュー、問題含みの女性関係、大作家たちとの交流までを赤裸々に記録した私小説の快作である。文壇の貴公子と呼ばれた作者も今年で作家生活三六年、齢五八を数える。「そう遠くない未来、自分の記憶も取り出せなくなってしまうので、その前にすでに時効を迎えた若かった頃の愚行、恥辱、過失の数々を文書化しておくことにした」とは作者の弁である。
ところで、なぜ自伝ではなく私小説なのか。それは、「正直者がバカを見るこの国で本当のことをいえば、異端扱いされるだろうが、それを恐れる者は小説家とはいえない。小説、とりわけ私小説は噓つきが正直者になれる、ほとんど唯一のジャンル」であるからだ。この国に異端文学としての私小説が必要であるゆえんを端的に示す名文句であるが、それだけではない。なぜ私小説が「愚行、恥辱、過失」を記録するものでなければならないか、そしてなぜ作者がそれを書かなければならなかったかについての示唆も含んでいる。
快挙、栄光、成功には理由がない(たまたまである)ことも多い。だからサクセスストーリーを旨とする「私の履歴書」風の自伝ではどんな正直者も噓をつくことになる。理由がないことに理由をつけなければならないからだ。それに対して、愚行、恥辱、過失には必ずそれなりの理由がある。噓つきの最低男は、おのれの愚行、恥辱、過失の根源を直視するかぎりにおいて、道徳的な評価はどうあれ、本当のことに触れているのである。ここにこそ成功者に対する最低男の、自伝に対する私小説の優位性がある。また、それがもっぱら愚行、恥辱、過失を語る文学ジャンルであることの必然性も。
本来、作者はこの文学ジャンルと極めて親和性が高いはずの作家だった。太宰治を思い浮かべていただけばわかりやすいが、もっとも生産性の高い私小説作家の人物類型といえば、おそらくはイケメンのマゾヒストである。イケメンでなければそもそも最低男の資格など得られないし、マゾヒストでなければおのれの愚行、恥辱、過失の数々をえぐり出すことなどできないからだ。そう考えると、現代においてこの作者以上に私小説向きの作家はいない。ウソとマコトがひっくり返ったようなこの時代、作者が満を持して私小説デビューを果たし、異端文学史の系譜に連なる存在となったことを喜びたい。
以上、ジャンル論の観点から本作の意義について論じてみたが、なにしろ上出来の私小説である。売りは作家の人生そのものだ。私は羨望と嫉妬をともに感じながら、その華麗かつ悲惨な人生遍歴を大いに楽しんだ。