『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』
[レビュアー] 桑原聡(産経新聞社 文化部編集委員)
■「言葉の格闘家」の日々
万延元年遣米使節の一員として訪米した福澤諭吉が持ち帰ったのがウェブスター英語辞典であった。その版元で20年にわたり辞書の編纂(へんさん)に携わってきた女性が本書の著者、コーリー・スタンパーだ。
辞書にまつわるエッセーというと、学識豊かな著者が蘊蓄(うんちく)を傾けた教養書と思いがちだが、どっこい、本書は《髪をピンクに染めた「言葉の格闘家」がその日々をつづった》と言ったほうが、空気感が伝わるように思う。確かな学識に裏付けられたうえで、ユーモアと自虐と皮肉の利いた彼女の文章は、読み手を飽きさせることなく、辞書編纂という仕事が具体的にいかなるものか生き生きと伝える。
同時に、人種の坩堝(るつぼ)であり、大きな経済格差があり、性的少数者の権利に敏感で、かつ広い国土を有する米国において、辞書を編纂することがいかにデリケートかつ政治的な仕事であるかを教えてくれる。政治もそうだが、全員を満足させることなど不可能だ。それゆえ、読者からの質問やクレームは日常茶飯事であり、たとえば「肌色は何色か」という難題に対応するのも彼女たち辞書編纂者なのだ。
私たちは辞書に規範を求める。それにこたえるべく多くの辞書は、規範意識をもって編纂されている。それゆえ一時的なはやり言葉や間違った用法と判断されれば掲載されることがない。しかし、従来の規範から外れているという理由で、ある言葉や用法を辞書から排除すべきでなく、ありのままに記録しておくべきという考え方もある。
彼女の携わったウェブスターは、後者の立場だ。確かに100年後に現在の雑誌を読むときに、規範意識に縛られた辞書は役に立たないかもしれない。言葉や用法は、思いもよらぬ形で変異し続ける。
だからウェブスターには、クレームがひっきりなしに寄せられる。たとえば《irregardless》なる言葉。《ir》と《less》が一つの単語に同居するなど(教養ある)読者には耐えられないのだ。最初はクレームに同調していた彼女がこの語の歴史をさかのぼり、最終的には擁護者となるくだりなど、知の冒険小説と呼びたくなる。こなれた訳は日本翻訳大賞の有力候補になるだろう。(コーリー・スタンパー著、鴻巣友季子他訳/左右社・2700円+税)
評・桑原聡(文化部)