『武蔵野夫人』
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性愛がなくて何が恋愛ぞと不満の声が
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「台風」です
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恋人たちにとって台風は時に幸いになる。鉄道が不通になり、ホテルに泊らざるを得なくなるから。
大岡昇平のベストセラーになった『武蔵野夫人』(一九五〇年)。
中央線の国分寺駅に近い野川沿いの「はけ」(水の湧く崖)に住む道子は、フランス文学者の夫がありながら、ビルマから復員してきた従弟の勉と心を寄せ合う関係になる。
秋の一日、夫が旅行(実は隣家の人妻と)に出かけたのを機に、二人は村山貯水池に出かける。無論、日帰りのつもりだったが、台風が接近し大雨になる。
やむなく二人は湖畔のホテル(戦前に建てられた多摩湖ホテル)に泊ることになる。恋人たちにとっては絶好の逢いびきの場。
愛し合う二人は「接吻」をする。そして――、基本的に戦前の貞淑な人妻である道子は最後の一線は越えない。勉に自制させる。おとなしく従う年下の男に道子は言う。「えらいわ、勉さん。あなたはやっぱりいい子ね」。
当時ですら、性愛がなくて何が恋愛(不倫)ぞと不満の声があったが、現代の読者もこの展開には正直、戸惑う。勉が気の毒。
この台風は一九四七年九月のキャサリン台風。利根川が決壊し、関東地方に甚大な被害をもたらしたことで戦後史に記憶されている。
戦時中の山林の乱伐と堤防工事の遅れが被害を大きくしてしまった。
この台風の直後の十月に戦前からの悪法、姦通罪が不敬罪と共に廃止された。