奇想天外な展開と緻密な作品世界を堪能できる、文藝賞作家・金子薫の最新作『道化むさぼる揚羽の夢の』

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

道化むさぼる揚羽の夢の

『道化むさぼる揚羽の夢の』

著者
金子 薫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103541714
発売日
2021/07/29
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

夢を持たない眠りを夢見て

[レビュアー] 高橋啓(翻訳家)

 天野正一と命名された本書の主人公は、数日にわたって鉄製の蛹に拘束されたのち、地下工場の中で揚羽模様の作業服を着せられ、ときに監督官から鉄棒による理不尽な暴力を受けながら、金属製の揚羽を作る作業を命じられている。

 金子薫氏の最新作は、こんな場面から始まる。金子氏の熱心な読者なら、三作前の『鳥打ちも夜更けには』にも、毒を仕込んだ吹き矢で監督官を殺し、処刑されてしまう天野という鳥打ちが登場していたことを記憶していることだろう。

 今回もまた期待に違わず(?)、奇想天外な場面が、読者の予定調和的な見通しを翻弄するかのように、次から次へと繰り出されてくる。最初は戸惑うが、この世界にはまり込んだら容易には抜け出せない。

 そもそも金子氏のどの作品においても、登場人物たちは作品世界の迷路のなかで彷徨い、自分はいったいどこにいるのか、何のためにここにいるのか、自分は何者なのかと自問し続けているのである。

 本作の舞台となる地下工場はじつに奇妙な構造をしている。地表近くの天井に吊り下げられた鉄の蛹から解放された数百人もの機械工たちは、巨大なすり鉢状の壁の内側に取り付けられた螺旋状の鉄骨階段を半日もの時間をかけて降っていく。たどり着いた楕円形のすり鉢の底には、工員の人数分だけの作業テーブルが設えられ、フライス盤やボール盤、研削盤なども備わっている。ここで金属製の揚羽を拵えるのである。

 今、著者の表記に従って「拵える」という漢字を使ったが、この著者の作品には今どきの若い作家が使いそうもない「常用漢字」外の漢字が頻出して、それがディストピア的小説世界にある種の気品と緊張を与えているようにも思える。

 前作の『壺中に天あり獣あり』でも、無限の迷路につらなる巨大ホテルの一室でブリキの小動物を作りつづける言海(ことみ)という名の少女が登場し、鉄の玩具を詰め込んだスーツケースを持って、螺旋階段を上がっていくシーンは圧巻だったが、今回の地下世界はもっと手が込んでいる。

 じつはこの地下工場は砂時計の形をしていて、作業場の下にもドーム状の空間が開けている。そこに工員向けの住宅団地が三角形の広場を囲むようにして三棟聳え立ち、物語が進むにつれて、その下にも人工の都市空間が広がっていることが見えてくる。

 主人公天野は、工場の監督官の暴力から逃れようとして道化アルレッキーノを演じることを思いつくのだが、やがてこの道化とのスキゾフレニックな葛藤に身動きが取れなくなり、またもや逃げ出そうとする。そこで繰り広げられる一人二役のシェークスピア的なドラマ展開はまさに圧倒的である。

 こうしてみると、いかにも殺伐とした作品世界のようだが、私個人としては、金子氏のどの作品にも、あの瑞々しい処女作に登場するトカゲの「夢を持たない眠り、人間を置き去りにした太古の眠り」(『アルタッドに捧ぐ』)が底に流れているように思えて、癒されるのである。

河出書房新社 文藝
文藝2021年秋季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク