『王子失踪す』
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暴走、凌駕、拡散、収斂。官能的な調和と破壊の連鎖
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
この小説は、脳に棲みつく。
山上たつひこ『王子失踪す』は五篇を収めた作品集だ。ギャグ漫画家として一時代を築いた作者は、素晴らしい奇譚の書き手でもある。
非凡な着想を支えるものは秀でた描写力だ。たとえば「フラワー・ドラム・ソング」では、主人公が天啓を得る場面が「土中から伸びて来た人の手の形をした植物の蔓がセイジの襟首を掴んで彼の体を空高く持ち上げた」と書かれる。こうした視覚的表現が鮮やかな残像を残していく。
表題作の主役は、瑠璃という八歳の少女だ。父親である笹山が彼女に着せ替え人形のミカちゃんとボーイフレンドの亜蘭を買い与えたことから思いがけない事態が起きる。亜蘭一家とミカちゃんの間に凄まじい愛憎劇が繰り広げられていると瑠璃が言いだしたのだ。人形なのに。八歳の娘が語る情痴模様は、やがて笹山家の現実をも侵食し始める。
他人とは共有しがたい想像力の持ち主は「キャロル叔母さん」にも登場する。主人公の叔母は、グリム童話などのお伽噺を独自の物語に改変する天才なのだ。この二篇では暴走した物語が現実を凌駕する瞬間が描かれる。次の「その蛇は絞めるといっただろう」は蛇専門のペットショップを営むノグチが、風変りな願望を持つ顧客と出会う話だ。これらの物語は野放図に拡散するように見えて、ある一点で現実の方へ向けてしゅるしゅると収斂していく。まるで投網のように。その抑制の利かせ方によって、上質の笑いが生み出される仕掛けなのである。
残る「ジアスターゼ新婚記」は、語り手が幾何学形態に固執する女性であり、夫が食材を「美しくレイアウトする能力」に魅了されている、というのが可笑しい。調和と破壊の連鎖が官能的に描かれた一篇なのだ。
本書の読み心地は明晰夢に似ている。奇怪なイメージが眼前で次々に展開していく。理性を保ったままそれに浸れば実に快く、脳が痺れる。