生命倫理の根幹と善悪の境界を問う 歴史から〈抹消〉された独裁国家を舞台に描かれた近未来小説

レビュー

5
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ループ・オブ・ザ・コード

『ループ・オブ・ザ・コード』

著者
荻堂 顕 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103538226
発売日
2022/08/31
価格
2,090円(税込)

書籍情報:openBD

〈抹消〉された国家の未来とは

[レビュアー] 瀧井朝世(ライター)

『メタルギア・ソリッド』シリーズなどを手掛けるゲームクリエイター・小島秀夫さん、作家の貴志祐介さんや東山彰良さんなど錚々たる方々から激賞された近未来諜報小説『ループ・オブ・ザ・コード』(新潮社)が刊行。パンデミックによる社会の変容、ジェンダー/セクシュアリティに起因する今日の「アイデンティティ」にまつわる問題意識、そして昨今の国際情勢など、社会問題を織りまぜた本作の読みどころを、ライターの瀧井朝世さんが語る。

瀧井朝世・評「〈抹消〉された国家の未来とは」

 なんというスケールの大きさ。すべての設定やエピソードが有機的に大きなテーマに繋がっていく丹念な構成に度肝を抜かれた。荻堂顕の新作長篇『ループ・オブ・ザ・コード』のことである。著者は二〇二〇年に『擬傷の鳥はつかまらない』で新潮ミステリー大賞を受賞してデビューしたばかりで、これがまだ二作目なのだからさらに驚く。

 人類が長年にわたる〈疫病禍〉に晒された後の世界。二十年前、とある国でクーデターを起こし政権を奪取した国軍幹部が、特定の少数民族のみを殺害する生物兵器を使用。その国は国連からすべてを〈抹消〉された。歴史も言語も名前も文化もすべて剥奪され、〈イグノラビムス〉という新たな国名を与えられ、国の全権は国連が握ったのだ。そんな国家で突如、二百名以上の児童が奇妙な発作と拒食に見舞われる謎の病が発生。世界生存機関(WEO)に所属するアルフォンソ・ナバーロは調査のため現地に派遣され、情報分析専門官や医師らとチームを組んで調査を開始する。着任後ほどなく、アルフォンソはWEO事務局長から非常事態が発生したと伝えられる。件の生物兵器の生みの親である博士が監禁場所から何者かに拉致され、同時に生物兵器も盗まれたというのだ。テロリストが生物兵器を使用すれば過去の惨劇が再現されてしまう。手がかりを見つけるよう命じられたアルフォンソは、謎の病の調査を進めながら、極秘裏に〈イグノラビムス〉の裏社会へと探りを入れていく。

 なぜ〈抹消〉という極端な決定が下されたのか。〈疫病禍〉による集団的トラウマを抱えた人類は、感染症には根絶を、“悪人たちの国”には制裁と改心による浄化を求めたという。その結果、この国の人々は虐殺の加担者という悪名を背負わずにすんだが、それは過去の過ちと向き合う機会を奪われたと言えるし、そして民族的なアイデンティティも失った。その時、その後の社会で何が起こりうるか。本書はその思考実験をしている側面がある。

 とにかく物語世界の構築の緻密さに唸らされる。〈疫病禍〉のなかで国際機構がどのように改変されたのか、一国の〈抹消〉が行われた後、人々の生活や町並み、通貨システム等がどのように変ったのか、児童の集団発症の調査がどのような手順で行われるのか――等々。実在のさまざまな事例を盛り込みつつ、説得力をもって物語は進行する。

 近未来が舞台とはいえ、どれも明日にも起こりそうな、他人事ではない出来事だと思わせる配慮が心憎い。未来的なツールも多々登場するものの、アルフォンソらの日常の描写には、現代人にとって馴染みのある、ものによっては古くさえ感じるアイテムが多数出てくる。ニューヨークの街を真似て再建された〈イグノラビムス〉にはサブウェイやウェンディーズが出店、彼らはU2やデペッシュ・モードの楽曲を聴き、読書歴はレイモンド・カーヴァーやニーチェ等、ショッピングモールに置かれているのはアルネ・ヤコブセンのスワンチェア……。彼らがいる世界は決して遠い未来のものではなく、それどころか同時代的だとすら思わせる。

 登場人物のプロフィールは多種多様で、彼らの人生観、家族観の交錯でも読ませるが、これもまたどこか身近に感じられるものばかりだ。アルフォンソは父方に日本人がいるがメキシコ出身で、事情があって故郷も血縁も捨てている。〈イグノラビムス〉に共に来た同性の恋人ヨハンからは生殖補助医療により子供を持ちたいと意思表示されているが、アルフォンソにとって生殖は悲劇の再生産でしかない。他にもWEOのスタッフの人生背景や〈イグノラビムス〉で〈抹消〉を経験した親世代の思い、〈抹消〉後に生まれた子供たちの家庭環境も明かされていく。マイノリティへの差別や男女格差、家庭内の暴力や虐待といった現代に通じる問題が多々盛り込まれ、さらには歴史と個人、科学と民間信仰、優生思想や反出生主義などの生命倫理といった大きなテーマにも踏み込んでいく。

 やがてタイトルの意味が見えてくる。「ループ」と「コード」のイメージを心に描きながらアルフォンソと共に読み手が噛みしめるのは、「私たちは人類の未来を信じられるか」、という問いだ。混沌とした今の世の中で、綺麗事はもちろん、生半可な正論では誰も説得されない難しい問いに、この小説は真正面から向き合っている。安易に明るい未来は提示しないが、しかし、可能性を感じさせる展開に圧倒されてしまう。力作にして怪作、今の時代に必読の黙示的長篇である。

新潮社 波
2022年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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