いちはやく作品を読んで『土竜(もぐら)』の世界に魅せられた、重松清さんによるスペシャル書評

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土竜

『土竜』

著者
高知東生 [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334915087
発売日
2023/01/25
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

背中の陰影を描き出すために――

[レビュアー] 重松清(作家)

 どの順番で読もうか、少し迷った。

 昨年晩秋、刊行前の本書のゲラ刷りを受け取ったときのことである。

 不勉強に恥じ入りつつ打ち明けると、どの作品も「小説宝石」掲載時には未読だった。作家・高知東生(たかちのぼる)とは、単行本で初めて出会うわけだ。だからこそ、あえて目次順ではなく雑誌掲載順に読み進めて、デビュー以来の歩みを遅ればせながら追ってみるのも「あり」かな、と思ったのだ。

 だが、目次と初出一覧とを照らし合わせると、作品は雑誌掲載順に並んでいるわけではなかった。となると、やはり、先に配列の妙を味わうべきだろう。

 初出順のアプローチにもいささかの未練を残しつつ、巻頭の「アロエの葉」から頁をめくった。

 すると、すぐさま「え?」と、驚きの声が漏れた。「アロエの葉」の語り手は、昭和半ば頃の高知県に暮らす初老の女性、人称は方言の〈あて〉なのだった。なぜ―? なにが描かれているか、どう描かれているかを読み込む以前に、なぜこの語り手なのか。

 作家のデビュー作はしばしば「名刺代わり」と呼ばれる。その喩(たと)えに倣(なら)えば、高知さんは、作家として差し出した名刺の巻頭に、初老の女性が語る物語を選んだのだ。まるで、俳優・高知東生の顔をいったん忘れていただきたい、と宣言するかのように。

 困惑した。しかし、それはほんの束の間、二、三頁読み進めるまでのことだった。〈あて〉の土佐弁の語りが強い。読み手の心をぐいと掴んで離さず、物語の先へ先へと導いていく。ほどなく、俳優・高知東生の顔が消えた。代わりに、昭和の(というより「戦後」だろうか)高知や神戸の猥雑(わいざつ)な裏通りの風景が浮かび上がってきた。

 任侠の男がいる。男が惚れた女がいる。その女が産んだ男の子がいて、その子を育てる祖母がいる。高知さん自身の生い立ちと重なり合う少年の名前は、竜二(りゆうじ)―〈自伝的初小説集〉と銘打たれた『土竜(もぐら)』は、竜二のルーツを三代にわたって素描する「アロエの葉」で幕を開けるのだ。

 物語の柄が大きい。しかし、これは短編の器には収まりきらないだろう……と案じていたら、続く「シクラメン」で、竜二は語り手の〈俺〉として登場する。「アロエの葉」では小学一年生だった彼は、中学生になり、高校生になって、社会に出ている。「シクラメン」はそんな竜二が語る幼なじみの夕子(ゆうこ)との切なくてほろ苦い物語である。

 なるほど、「アロエの葉」はエピソード0で、ここから竜二自身が語る〈俺〉の物語が展開されるわけだな……と早合点していたら、続く三篇目の「喧嘩草(けんかぐさ)」では、また語り手が変わる。喧嘩と女に明け暮れる二十歳前後の竜二が上京するまでの姿が、悪友の半沢(はんざわ)によって語られるのだ。

 前半の三篇を立て続けに読んだあと、巻末の初出一覧をあらためてチェックした。

『土竜』の全六篇の中で最も早く発表されたのが「シクラメン」で、二〇二一年一・二月合併号に掲載された。同作は高知さんにとって生まれて初めて描いた小説になる。芸能人だからという色眼鏡にも負けず、新人作家のデビュー作として好評を博したという。

 ならば二作目では、そのまま竜二自身の語る〈俺〉の物語を続けてもよさそうなのだが―。

 デビューから間を置かず、二〇二一年四月号に掲載された作品が、祖母の語る「アロエの葉」だったのだ。

「シクラメン」の続きではなく、逆に時をさかのぼった。人称もがらりと変えた。大きな冒険である。せっかく読者に鮮烈な印象を残していた竜二を物語の遠景に追いやってまで、両親と祖母の話を描いたわけだ。

 では、物語の時系列では「シクラメン」の次にあたる「喧嘩草」は、いったいいつ掲載されたのか。確認すると、二〇二二年一・二月合併号。全六篇で二番目に新しい作品なのだ。「シクラメン」の勢いを買ったデビュー第二作として、むしろ「アロエの葉」のタイミングで執筆して然るべき、竜二の上京前夜の青春物語をずっと残していたのだ。

 そこまで「アロエの葉」を早く描きたかったのか。描かずにはいられなかったのか。でも、なぜ―?

 その疑問をあえて胸に残したまま、後半に入る前に、いったんゲラ刷りから離れた。手元には「副読本」がある。

 高知さんは、すでに『生き直す 私は一人ではない』(青志社・刊)という著作で、波瀾万丈(はらんばんじよう)の半生を振り返り、薬物依存からの回復を目指す近況を綴(つづ)っていた。

『生き直す』の語り手は、高知さん自身の〈僕〉である。「喧嘩草」で描かれたヤンチャな仲間たちとのエピソードは、『生き直す』にも登場している。つまり、「喧嘩草」は、竜二の一人称で描かれてもよかったのだ。

 しかし、高知さんは「喧嘩草」を半沢の視点で描いた。竜二を「語る」存在ではなく、半沢によって「語られる」存在にした。

 さらに、「アロエの葉」で描かれた自分の出生の経緯は、『生き直す』にはまったく出ていない。「シクラメン」のヒロイン・夕子も同様である。『生き直す』刊行の時点ではわからなかった新事実が出てきたのか、「そういえばあんな同級生もいたな」と夕子のことを思いだしたのか。いや、おそらく、そうではなくて……。

 まいった。この〈自伝的初小説集〉は、一筋縄ではいかない。〈自伝的〉の〈的〉が、ずしりと重くなる。そして、〈的〉にも増して、〈小説〉が重い。

 世間の耳目は、やはりどうしても〈自伝的〉のほうに集まるだろう。それはそれでいい。少しでも多く読まれてほしい一冊であることは間違いないのだから。

 だが、確認しておきたい。高知さんが挑んだのは、断じて「小説集的な自伝」ではない。小説である。すでに前半三篇だけでも、作品の配列や人称の選び方に作家のキモが覗(のぞ)く。技巧や企(たくら)みといった言葉では軽い。作家のキモとは、覚悟や執念と通底するものなのだ。

 ゲラ刷りに戻った。背筋が、おのずと伸びていた。

 後半の三篇でも、竜二は語り、語られ、物語の最前景にいたかと思えば、うんと遠景に退いてしまい、「昼咲月見草」のように、作品世界から姿を消し、不在という存在で語られるときまである。

『生き直す』では〈僕〉に固定されていた視点が、『土竜』ではさまざまに動く。動かなければ描けない。別の誰かのまなざしを借りなければ見えないものがある。たとえば、ひとは自分一人でオノレの背中を見ることはできないのだ。

 高知さんは、『生き直す』でたどった半生を、小説というフォーマットにコピー&ペーストしたわけではない。

 自らを投影した竜二という孤独な男を、型に流し込むのではなく、塑造や彫刻のように、こねて、彫って、造形した。

 そのために、作家・高知東生は、矯(た)めつ眇(すが)めつ、竜二に光を当てる。

 作家は、竜二が〈俺〉のままでいては素直に認められない弱さや甘え、そして寂しさを、別の誰かに語らせた。〈俺〉がつい目をそらしてしまうものを作家のまなざしで凝視して、時には容赦なく描いた。一方で〈俺〉の知る由もなかった出生までの物語と、若き日の両親の姿を祖母に語らせた。『生き直す』では、言葉を交わすことはなかったと綴っていた実父を、小説の中で魅力的に描いた。母の妙子(たえこ)もそう。

 だが、作家は主人公を決して甘やかさない。罪を犯して多くの人を裏切った竜二に、最終話「梔子(くちなし)」では〈俺〉として語らせなかった。小説の中でさえ弁明を許さない。代わりに、遠近それぞれの距離や角度で付き合ってきた人たちに、突き放すように、包み込むように、竜二を語らせて……。

 結果、竜二の背中は、こんなにもしっかりとした厚みを持って―だからこそ深い陰影を刻んで、描き出された。

 背中にあるものはなんだ。背負っているものはなんだ。

 作中、竜二は相棒の半沢に向かって、こんなことを言う。

〈俺はなんでいつも寂しいんやろな〉

 寂しさを背負った孤独な土竜は、光のない闇の世界で、一心に穴を掘る。

 どこに向かって―?

 全六篇を通して、ひそかな主題として「母」がいる。竜二だけではない。半沢も、優等生だった高橋(たかはし)も、その他の登場人物も皆、寂しい。その寂しさを埋めてくれる「母」の乳房のような微(かす)かな光を求めて、土竜たちは、闇を往く。

 作品にはすべて、花や草にまつわる題名がついている。

 土の中にいる土竜には、地上の花を見ることはできない。けれど、根に触れることはあるだろう。その根をたどっていった先には、小さな花がひっそりと、慎ましやかに咲いているかもしれない。

 僕は、「梔子」のラストの数行を、そんなふうに解釈している。幸薄かった少女が咲かせた赦(ゆる)しの花に、どうか竜二が気づく日が訪れますように、と祈ってもいるのだ。

光文社 小説宝石
2023年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

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