義父を殺し、飛び降り自殺した母 遺書には「世の中捨てたものではない」と……凄絶な過去を持つ俳優に映画監督・石井裕也が贈った言葉

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遠い家族

『遠い家族』

著者
前田 勝 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103549918
発売日
2023/03/29
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

母親への愛を静かに叫ぶ剥き出しの魂の軌跡

[レビュアー] 石井裕也(映画監督)

 作者の存在を知ったのは二〇一八年に放送された『ザ・ノンフィクション』というテレビ番組だった。映画監督という仕事をしているが故に、私は日常的に俳優の顔を探してしまう。顔とはとり返しのつかない内面の露出。そう言ったのは誰だったか。とにかく顔面にはその人の人生の痕跡がくっきりと刻み込まれるものだ。作者は、まさしく私が求める俳優の顔だった。自らの存在を純粋に疑い尽くしている顔。所在なさげにずっと困り続けているような顔。滅多には見つけられない特殊な相貌をしていた。この人に自分の映画に出演してもらいたいとすぐに思ったが、きっともうオファーがたくさんきているだろうと躊躇した。

 それから二年後、コロナ禍で迎えた最初の夏。私は母を題材にした映画を撮ることにした。実は私の母は三十六歳で病死していて、私はその喪失の埋め合わせの手立てを三十年間獲得できずに苦しんでいた。それでも私の喪失は、私自身が母の年齢を超えたことで少しばかり変化してきた。母に真っ直ぐ向き合うことはとても怖かったが、今こそ対決の時だという確信があったのだ。今度は躊躇なく前田勝さんに連絡を取り、出演のオファーをした。彼の喪失が生み出すエネルギーが必要だと感じたのだ。

 この本を読む限り、作者が俳優を志したきっかけに劇的な要素は皆無だ。作者にスケベ心があればこのあたりを丹念に描いて業界への名刺代わりとするだろうが、彼にそんな下心は微塵もない。

 それでも私は確信する。作者が俳優になったのはもはや運命であり、本書において母との決着をつけた彼のこの後の人生は、俳優としての自分との決着に向かうことになるだろうと。本稿冒頭で作者を「今はまだ何者でもない」と形容したのは、職業俳優として未だ成功していない彼を見下しているわけでもなければ侮辱しているわけでもない。私は俳優としての彼を全面的に信頼し、信用している。今はまだ何者でもないどころか、彼はこれからもずっと何者でもないはずだ。本書は、その現実の全てを彼が引き受けた宣言文でもあると私は考える。何者でもないから何者でもある。つまり、彼は俳優としていよいよ新しい世界へと打って出る覚悟を決めたのだ。私はそのことに気づき、また涙した。表現というものの紛れもない真髄がこの本にはある。「ぼくを見て!」という幼少期の叫びが無事に叶えられ、優しく母に抱きしめられた人間は、きっと表現の道を志さない。前田勝さんのこれからの人生は、これまで以上に劇的なものになると私は気楽に夢想する。それは彼の運命。

新潮社 波
2023年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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