神田伯山×永井紗耶子・対談 古典を現代に活かすために【後編】

対談・鼎談

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木挽町のあだ討ち

『木挽町のあだ討ち』

著者
永井 紗耶子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103520238
発売日
2023/01/18
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

古典を現代に活かすために


神田伯山さん

いまウケる登場人物像とは? 田中角栄も演説の出来が気になった?

歴史・時代小説と講談のトップランナー2人が、それぞれの技藝の勘どころを語り合います。

前編から読む

神田伯山×永井紗耶子・対談「古典を現代に活かすために」

永井 江戸時代後期に実在した商人、杉本茂十郎を主人公にした『商う狼』という長篇小説を書いたことがあります。莫大な金を動かし、「金は刀より強い」と、疲弊していた文化期の社会制度を次々と改革したすごい人物ですが、なぜかほとんど知られていません。

 彼の人生についての史料も少なくて、書きあぐねたときに、「そうか、講談の手法を使えばいいんだ」と。講談は、セリフ中心の落語と違って、小説でいう「地の文」が多いですよね。「皆様ご存じの」と、読み手の予備知識に頼ることがまったくできない杉本茂十郎を書くには、説明的な要素もおもしろく語る講談をイメージして書けばできるのではないか。そう思って、講談を聞きに行ったり、動画を見たり、速記本を読んだりしました。

 講談は長尺、かつ重い話もやれるところがすごいですね。

伯山 講談は何年何月何日の話か、その日の天気など周辺の細かいことにも言及して、語る人物に奥行を出すんです。落語はあえて、「八っつぁん」「熊さん」と人物を記号化するし背景をぼかすこともあります。

永井 杉本茂十郎のように、「皆様ご存じの」が通じない演目をやるときは、どういう工夫をされるのですか。

景気がよければ

伯山 「赤穂義士銘々伝」をやったあと、ツイッターで、「すごくおもしろかったけど、自分に赤穂義士の知識があればもっと楽しめたのに」というコメントを見つけたことがあります。私はエゴサ好きなので(笑)。「あ、お客さんをひとり置いて行ってしまった。もっと赤穂義士の説明を丹念にしてからやればよかったなあ」と。

 知名度のほかに、世相も意識します。たとえば、今の人には豊臣秀吉はあまりウケないんですね。田中角栄が活躍していた時代なら、景気もよくて、秀吉が人気だったと思います。今は大河ドラマ「どうする家康」の、弱い家康がウケる時代です。

永井 松本潤さん演じる、葛藤する家康を楽しく拝見しています。でも、家康といえば「独眼竜政宗」(1987年)の津川雅彦さんですね。

伯山 あのタヌキ親父ぶりは忘れられません。津川さんが体現していたように、実際には、家康は総合的にみれば「史上最強の武将」でしょう。戦国時代の覇者なわけですから。

 私はあえて弱々しくしてみせることを「弱者芸」と呼んでいるのですが、令和の人々にとってはそれが一番しっくりくるのでしょうね。身近な家康というか。ドラマでも後半は盛り返して来られると思いますけど。

永井 私と同世代の時代小説、歴史小説家は、勝つ栄光ではなく、敗けた苦悩に重きを置いて人物を書くことが多い気がしますね。私は一九七七年生まれの就職氷河期の世代で、好景気の恩恵を受けたことがありませんので。

伯山 『木挽町のあだ討ち』の登場人物も子どもに先立たれた夫婦、身寄りのない人、ネグレクトされて育った人など、つらい身の上の人が多いから、弱者芸とはちょっと違いますが、今の読者がその悲しみに心を寄せやすいのでしょうね。

 私は心奮い立たせたいとき、YouTubeで田中角栄の演説を見るんですよ(笑)。お年寄りが角栄の話にうっとり引き込まれていて、信じられないような笑顔でパーッと笑うんですよ。そのときの内容は「お年寄りを大事にしよう」くらいなんですけど。実に大衆的な話芸なんですよね。それを見ると元気が出てくる。

永井 角栄、エモいんですね。

伯山 同時代人だったら、そんなに好きな政治家ではなかったかもしれませんし、「ああなりたい」というわけではないんですけどね。

永井 過去の人間という距離感がいいのでしょうか。

伯山 岐阜羽島では落語や講談が他の地域よりは流行っていて、ときどき行くのですが、駅前に衆議院議長まで務めた大野伴睦夫婦の像が立っています。「何もない岐阜羽島に、大野伴睦先生が強引に新幹線を通してくれたおかげで短時間で来られる。あんまり利用者いないけど」とか思いながら、そのマッチョな史実に、毎回胸が熱くなります。全体でみるとどうかと思いますが、私は便利という(笑)。

永井 少し距離がある昭和史だから、いわば物語として熱く心を寄せられるのでしょうね。そういうところが、伯山さんは古典芸能に向いているのではないでしょうか。

歌舞伎の攻め

伯山 そのとおりかもしれません。永井さんはなぜ歴史もの、時代小説にこだわるのですか。

永井 私も距離感が好きなんです。現代人に興味がないわけではないのですが、たとえば、渋谷のスクランブル交差点に立っている、つらい身の上の人を想像したとき、それだけでどっと疲れてしまいます。

 日が暮れたら暗くなって、四季の移り変わりに生活も合わせて……そんなシンプルな古典の世界観が好きですね。現代とは、社会風俗の点ではズレたところがありながら、いつの時代も変わらない人間ドラマを描くのが好きです。

伯山 時代背景が違うからかえって人間の普遍性が浮き彫りになり、伝わりやすくなるというのは、ありますよね。

 以前、歌舞伎を観て、「長いなあ。もっとギュッと縮められるだろうに」と思ったことがあり、歌舞伎役者さんにそう話しました。そうしましたら、「いや、昭和のはじめ頃はもっと短くてスピーディだったんですよ。今はかなり長くなっているんです」と。伝統ある歌舞伎も時代に合わせて試行錯誤していることに感心しました。

「風の谷のナウシカ」とか「ファイナルファンタジーX」はじめ、歌舞伎は次々と新作を発表して、攻めの姿勢が本当にすごい。FF歌舞伎なんて、休憩も入れてですが昼、夜合わせて七時間とか。誰か大人が止めなかったのか、って話ですよ(笑)。行った人には評判良いですけど。

永井 年齢を経て、好きなネタが変わってくるものでしょうか。

伯山 だんだんと洗練されている、キッチリしているものがしっくりき始めますね。ただ冗長なのはせっかちなので嫌になっちゃう(笑)。単純に年齢だけでなく、子どもをもつと、『木挽町のあだ討ち』にも出てきた「菅原伝授手習鑑」の子どもが犠牲になるエピソードがつらくなったりします。

永井 TikTokを「おもしろいでしょ」と若者に見せられて、ちょっとよくわからなかったのですが、「その感性をわかりたい」とは思いますね。

伯山 若い人が何をおもしろいと思うのか、理解しようとするのは素敵なことです。ただ私の場合、そういう意識がだんだん薄れてきまして、最近、「若い老害」になりつつあるのを感じますね。そもそも若いときから同年代と合わなかったので、今なんかより合うわけがないなと(笑)。

 そうそう先日、相撲を砂かぶりで見物したのですが、全然違うんですね。力士の激しい息づかいもわかるし、巨体が目の前に投げ飛ばされてきたりもして、衝撃でした。同じ相撲でも、テレビで見る、両国国技館の上の方の椅子席で見る、砂かぶり席で見る、それぞれ見え方が違うんですね。相撲に限らず、違う角度、違うパターンによっていろんな楽しみ方ができるのではないか。裏を返せば、演じる側としては、さらにおもしろくできる余地がまだあるのではないか。そう希望を持ちました。

永井 十年近く前、ライターをしていたときに今の松本幸四郎さん、当時の染五郎さんの取材で、こんぴら歌舞伎へ行って「女殺油地獄」を見たことがあります。あの小屋はあえて昔ふうに照明があまりありませんよね。うす暗いなかで本物の油に見えるような液体が舞台に撒かれ、染五郎さん演じる与兵衛がこけつまろびつ油だらけになりながら中村壱太郎さん演じる人妻お吉を殺めたときには、殺人現場を実際に目撃したかのようなショックを受けました。

伯山 ライブは、小屋のサイズ感、演者はおろか見る人の体調にまで左右されるほど、有機的なものですよね。今日も国立演芸場でやってきましたが、観客のなかにお子さんがいたんですね。小学校低学年らしき子どもの「けらけらけら」というかわいらしい笑い声が場内にひびいて、それを聴いた三百名の観客も演者も幸せな気持ちに包まれました。ライブはひとつとして同じことがないから、やっていても見ていてもおもしろいんですね。角栄も演説したあとで、「今日はよかった」「今夜はイマイチだった」とか言っていたのかなあ(笑)。

永井 政治家の演説はリズム感が良かったり、おもしろいですね。駅前などで街頭演説をやっているところに通りかかると、つい聴いてしまいます。

伯山 『木挽町のあだ討ち』は、語りのリズム感もいいのですが、第二幕で役者が「忠っていう字は心の中って書くでしょう。心の真ん中から溢れるもんを、人に捧げるってことだと思うんで」と忠義の真の意味について語るところなど、名台詞がいくつも出てきます。あれは日頃からストックしているものですか。

永井 登場人物が話してくれる言葉を書き留めたもので、私が考えたものではないんです。前に座ってもらって、話してもらっている感じです。

伯山 エッ。憑依芸だったんですか! 「ドカベン」の水島新司先生の、「岩鬼が打つ気はなかったのにホームランを打った」みたいな話じゃないですか(笑)。

永井 危ない人みたいに見えるかもしれませんが、私に限らず、そういうふうにして書く小説家は多いのではないでしょうか。イタコみたいなものかもしれません。聞き取った言葉を書いて原稿を提出して、担当編集者に「あの言葉が良かった」と言ってもらえると、「良かった。私じゃなくて登場人物が勝手に言ったんだけど」と思ったりしますね。

伯山 永井さん、志らく師匠と気が合いそうですね。志らく師匠も、「談志が降りてきた」とおっしゃったりするから(笑)。

 北方謙三先生もそうなのかな。YouTube「神田伯山ティービィー」で対談させていただいたことがありますが、たったひとり、私がサイン会に並んだことのある作家です。連続もののおもしろさを教わった『水滸伝』全十九巻には、下がかった描写が四十頁ごとくらいに出てきて、箸休めになって好きなんですけど……あれは北方先生が憑依されているんでしょうね(笑)。

永井 伯山さんも、実在の人物から、「鹿政談」の鹿、「寛永宮本武蔵伝」の狼まで憑依して語っているように見えます。


永井紗耶子さん

弟子に教わる

伯山 憑依しているかのように「見せている」という状態ですね。私はもともと感情過多なところがあり、確かに終わったあと楽屋で放心状態に陥ることもあります。ただ、それが講談としていいのか悪いのか、わかりません。もう少し歳を取ると、肩の力が抜けて、演目とちょうど良い距離感が保てるのかもしれません。

 今日、ここへ来る前に、十九歳の三番弟子に稽古をしてきました。前回の稽古で、一語一句覚えないといけないところを言葉が抜けたりしていたことがあり、「プロとして、この先数十年やっていこうというときに、最初の一歩がこれではいけない」と厳しい話をしました。そうしたら、今日は全然違っているんです。ずいぶん稽古したんでしょうね。「どうだ。これだけ稽古したから文句ないだろう」という気迫と落ち着きがある。そこまでいくと、聞き手に伝わってくるものが前回とまるで違ってくるのです。弟子に教えながら、私も「そうか。腹に落ちるまで稽古しないといけないな」と教わりました。

永井 演目が同じでも、演じ手で全然違いますよね。例えば「中村仲蔵」。私は落語でよく聞いていたのですが、伯山さんの仲蔵はずしりと重くて、内面までぐっと迫れて、とても魅力的でした。落語の軽妙さと講談の深さ、どちらも面白いです。

伯山 落語で「子ほめ」を師匠と弟子で一語一句違わずやっても、まったく違う印象になるんですよね。ある弟子が「師匠、なぜ僕はウケないのでしょうか」と聞いたら、師匠に「三十年経てばわかるよ」と言われたそうです。

永井 それだけ長い時間かかってやっと、ということでしょうか。

古典の“精巧さ”

伯山 間合いひとつとっても、一見ハリボテのようにも見える「つくり」の裏側がどれほど精巧に、計算し尽くされて作られているものなのか。それがわかるのにかかる年月なんでしょうね。『木挽町のあだ討ち』でも、元武士の立師、与三郎が自分がそれまで腕を磨いてきた実際に人を斬る剣術と、舞台で美しく見える、魅せる剣術が全く異なることに驚き、学んでいく場面がありますね。あそこはぐっときましたね。

永井 与三郎は一番苦労して書いた人物なので、うれしいです。

伯山 講談以外の演芸であっても、見るとその精巧さにしびれるんです。そういう細やかさを知るにつけ、僕はつくづく芸能が好きだな、と思います。歌舞伎は好きで良く観に行くのですが、本当に細かい芸が凝らされています。先日も「身替座禅」を観に行きました。

永井 浮気の話ですね。

伯山 よく浮気の話だけで六十分やるな、とまず感心する(笑)。尾上松緑さんが恐妻家なのに浮気に走る大名・山蔭右京、激しい気性の奥方玉の井を中村鴈治郎さんが演じていらっしゃいました。浮気相手の話をさんざんしているそばに、かみさんがいた。そのことに気づいた瞬間、山蔭右京の松緑さんが十秒ほど黙り込むんです。

 観客でも長く感じますから、演者の体感としては、二十秒、三十秒もあるのでは、というような勇気のいる間です。どえらい間ですが、それを可能にしているのは「古典への信頼性だ」と考えると感激しますね。

永井 伯山さんは、体感で間を空けるのですか。

伯山 そうですね。「もうちょっと待て、焦るな焦るな」と心のなかで自分に言い聞かせて、お客様を引き付けてから、ポンと次のセリフを言いますね。歌舞伎と講談の違いはあると思いますが、自分が「中村仲蔵」で空ける間も、せいぜい六、七秒ですから、十秒は未知の領域です。自分に照らし合わせて感心しました。

永井 ある演出家さんが「舞台で客に背中を向けて黙って立っているだけで、目を離せないたたずまいをみせるのが一番すごい俳優だ」とおっしゃったことがあって。それは確かにすごいことだと。

伯山 最近、すべての芸能の基本は「踊り」にあると気づきましてね。踊りは、繊細な動きをすることで、どういう感情がお客さんに伝わるのかという細かいボディランゲージを学べますから。弟子たちに「俺はもう間に合わないけど、君たちは踊りを習いなさい」と話したところです。

 長い時間、そのものを愛さないと、付け焼き刃では醸し出せないものがあるんでしょうね。『木挽町のあだ討ち』は古典芸能を長らく愛してきた永井さんだから書けたのだと思います。そういう意味で、まさに「踊り」が入っている小説でした。講談、落語、歌舞伎など、ジャンルを問わず、全演芸好きの方に勧めたいです。

新潮社 波
2023年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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