『渋江抽斎』
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二人の袖は横町の溝板の上で摩れ合ったはず
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
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今回のテーマは「古本」です
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古本への情熱が生んだ本というのが世の中には多々ある。森鴎外の史伝物の傑作『渋江抽斎』もその一つだ。
五十を超えた鴎外は、江戸時代の「武鑑」の蒐集にハマった。大名や旗本、幕府の役人等について、様々な情報を記した名鑑である。現在ではネット上の「日本古典籍データセット」(国文学研究資料館蔵)で381点を閲読可能だ。
鴎外はこれを一点一点集めていった。蒐集の過程で「『弘前医官渋江氏蔵書記』という朱印のある本」としばしば出くわし、興味を引かれた。さらに、武鑑に関する貴重な資料『江戸鑑図目録』を上野の図書館で参照してみると、その本にも同じ朱印が押してあり、「抽斎云」との記述が散見された。
鴎外は考えた。「抽斎」とは「弘前医官渋江氏」と同一人物なのではないか。どうやら、同じく医者である自分は奇しき偶然により、その先達のあとを追うようにして武鑑集めに夢中になっていったらしい。そこで鴎外は有名な一行を記す。
「もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖は横町の溝板の上で摩れ合ったはずである」
コンタンポランとはフランス語で「同時代人」。小倉赴任時代、仏人神父のもとに通って勉強した成果を披露しているのが微笑ましい。抽斎が聞いたら目が点になっただろう。だが書物の世界に遊ぶとき、鴎外は時代の違いも洋の東西も超えてしまう。うらやむべき境地と言うほかない。