『街とその不確かな壁』
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『街とその不確かな壁』村上春樹著(新潮社)
[レビュアー] 鵜飼哲夫(読売新聞編集委員)
ゆったり進む 夢と現実
読みながらウトウトした。それも何度か。退屈したのではない。心地よかったからだ。人を安眠に誘うクラシックの名曲にはゆったりとしたリズムが繰り返される。それと似ている。
主人公の〈ぼく〉は、高校時代に恋した少女がいる。とても美しく、不思議なことを言う一つ年下だった。「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの」「今ここにいるわたしは、本当のわたしじゃない。(中略)ただの移ろう影のようなもの」
この言葉とともに姿を消した少女に会いに、〈ぼく〉は、人々が影を持たず、時計台に針がない、単角獣のいる壁の街にやってくる。そして1冊の本もない図書館で「夢読み」となる。
これぞ春樹ワールドだが、まどろむうちに彷徨(さまよ)い込んだような世界には、奇妙でリアルな感触がある。だが、かつて戦争や疫病もあったらしい街では、よくわからないことばかりだ。人々はなぜ影を失ったのか? どうすれば街から出られるのか? その後、中年になった主人公が〈現実の世界〉に戻っても、イエロー・サブマリンの少年など不思議な存在が登場し、現実と非現実は混在したままだ。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などの要素も反復され、なじみの読者には過去と現在までもが混濁してくる。
ゆったりとした進行を支える熟練の表現力で時空を超越する。これは「老い木に花」で知られる世阿弥が確立した夢幻能だが、本作を読む者もまた、夢幻の世界に彷徨い、現実のむなしさ、夢の美しさ、物狂おしさを味わう。
今はやりのチャットGPTのような、もっともらしい答えや解説はない。しかし、作家が長年温めてきた現代の物語には、世界を分断する壁、時間と効率に追われ、ゆっくり見ることを忘れてしまった自分の分身、日が昇り日が沈むにつれて伸び縮みする影の存在について、自分たちで考えるよう仕掛ける力がある。