『気ながれる身体の考古学 近世日本における養生』片渕美穂子著(晃洋書房)

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気ながれる身体の考古学

『気ながれる身体の考古学』

著者
片渕 美穂子 [著]
出版社
晃洋書房
ジャンル
哲学・宗教・心理学/哲学
ISBN
9784771037052
発売日
2023/04/10
価格
4,950円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『気ながれる身体の考古学 近世日本における養生』片渕美穂子著(晃洋書房)

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

陰陽バランス論 独自発展

 夏の暑さは身体にこたえるが、四十歳をこえた人は、若いころよりも衰えはじめているので、とりわけ気をつけないといけない。現代の医師からも聞くような助言であるが、徳川時代の日本で盛んに刊行された「養生書」においても、同じことが書かれている。ただしそれは、西洋近代に由来する医学知識とは、まったく異なる自然観と身体観に基づくものであった。

 本書は、徳川時代の多くの養生書を読み解くことを通じ、当時の人々が身体とその養生についてどう考えていたかについて、全体像を明らかにしている。前近代の東アジアに普及した「気」の思想においては、自然界の全体を構成する「気」の運動が、人間の心身の内部にも働いているとされる。したがって、四十をこえて「老人」の域に至った人の身体の内では、不活発な「陰」の気が衰えているので、活発な「陽」の気が盛んとなる夏の「気」節には、怒りをたかぶらせるようになり、周囲の人間関係を壊して自身も不調に陥ってしまう。

 このように、自分の身体に気をつけて「陰陽」のバランスを保とうとする養生論は、十八世紀以降の日本では独自の展開をとげることになる。都市生活が発展するなかで、養生をめぐる言説は、個人の欲望の制御を唱え、イエと社会の秩序を維持する道徳論としての性格を帯びるようになったのである。あたかも園芸植物を大事に育てるように、自分やわが子の身体を対象化して養育する発想も、そこで生まれることになった。それは同時代に発展していった蘭学の動向とは別の動きではあったが、やがて日本に西洋医学が普及するための素地ができつつあったことが、よくわかる。

 本書には、養生の考えを表した歌川国貞作(推定)の錦絵が紹介されている。人間の身体を一つの都市と見なして、さまざまな内臓の機能を、社会における分業にたとえたもの。近代医学にも通じる要素もあるが、やはり近代人とは異なる、徳川時代の身体観。その諸相を豊かに実感できる本である。

読売新聞
2023年8月4日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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