『ルソーからの問い、ルソーへの問い』
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『ルソーからの問い、ルソーへの問い 実存と補完のはざまで』熊谷英人著
[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)
現代に届く思想の多面性
アニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ版・劇場映画版を初めて観(み)たとき、似ていると思った長篇(ちょうへん)小説がある。日本の戦後文学の名作、埴谷雄高の『死霊(しれい)』である。他者と自分自身のとらえがたさに悩む、若い男性の主人公。謎めいた怖い父親。強い生命力で、物語の最後に世界のすべてを包みこむ女性。あらすじは大きく異なるが、登場人物の設定が不思議と近い。政治学史(西洋政治思想史)研究者としての観点から熊谷英人は、さらに時代を遡って、十八世紀フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーの思想と『エヴァ』との間にある共鳴関係を、議論の冒頭にすえている。『エヴァ』の製作チームや埴谷がその著作を熟読したというわけではない。人間と文明をめぐって、現代にまでつながる問題の切り口を鋭く示し、その後の時代に影響を残し続けた。そんな「多面体」としてのルソーの姿と、思想史に残した波紋を本書はたどる。
ルソーの特徴をなすのは、「ありのままの自己」を見失った個人の実存の苦悩と、そうした疎外を克服し、連帯を取り戻すことのできる「秩序」の探究と、その双方を徹底して追求する「二重性」である。デモクラシーの理論として一般に参照される『社会契約論』の内容は、ルソーの思想世界の全体から見れば、あくまでも秩序構想の一つにすぎない。市民が理性を働かせて作りあげる「共和国」のほかにも、原始の純朴な社会や、親密な社交の空間を想定し、構想の欠点を補完しようとしたのである。
そして、戦後日本においてルソー的な主題を継承した思想家として、林達夫を熊谷はとりあげる。林は現実政治に対する積極的な関わりを拒否し、世間から隠れて生きる姿勢を標榜(ひょうぼう)していた。しかしその思想の営みは、ルソーの「二重性」をみずからの基盤としながら、戦後日本の「民主主義」を辛辣(しんらつ)に批判するものだったのである。十八世紀の思想の営みが、二十一世紀にまでまっすぐに届く。政治と政治学を考えるにあたって歴史がもつ意味を、本書は豊かに語っている。(吉田書店、4180円)