『おばちゃんに言うてみ?』
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「うち、平気やで」に秘められた大切なこと
[レビュアー] 藤田香織(書評家・評論家)
藤田香織・評「「うち、平気やで」に秘められた大切なこと」
そうは言われても、おばちゃんには言いたくない、と思ったのである。
本書『おばちゃんに言うてみ?』の、「おばちゃん」とは大阪の、しかも〈大阪の中でも最も乱暴な言葉とされている〉泉州弁で喋る岸和田のおばちゃんだ。
第一話の語り手となる正岡沙由美によると、明るい茶色のパンチのような「おばちゃんパーマ」で、見ず知らずの人間にヒョウ柄とトラ顔のトップスを見せ、「なあ、どっちがええと思う?」とぐいぐい訊いてくるような、おばちゃんである。もちろん凄まじくお喋りで声はでかい。
タイトルとここまでの描写で、あぁこの絵に描いたようなザ・大阪のおばちゃんが、お節介を発揮して、今どきの打たれ弱い若者たちが抱えている苦悩や屈託の相談にのって解消していく話なのだろう、と想像したのである。おばちゃんお悩み相談室、みたいな。
であれば。読むには楽しそうだけど、自分はこんなおばちゃんに相談なんてしたくないと、私に限らず、多くの老若男女が思うだろう。他人に容易に打ち明けられないからこその苦悩や屈託なのに、「がさつ代表」のようなこのおばちゃんに? 言ってみる? いやいやムリムリ、話通じる気がしないし、理解なんてされるわけない、と。
ところが。
そんな浅はかな話ではなかった。
読み終えた今、私はこの大阪のおばちゃん=小畑とし子と一晩中語り明かしたい。何もかも聞いて欲しいし、とし子にも、「東京(いえすみません、私は埼玉在住ですが)のおばちゃんに言ってみ?」と言いたい。ぎゅっと抱きしめたい。飴ちゃんをもらったら、チョコレートを返して、美味しいなぁと一緒に食べたい。端的にいうと、とても人間味があって、驚くほど(失礼)いい話だったのだ。
五話が収められた物語は、ざっくりいえばやはり「おばちゃん相談室」の体を成している。自らの抱えている事情を、とし子に「言うてみる」ことになるのは、夫の実家である岸和田へ越して来たものの、土地に馴染めず欝々とした毎日を過ごしている正岡沙由美三十歳(「岸和田でヨガ」)。地元の愛知でスカウトされ、高校を中退し上京して八年目、南青山に住む水野華(「代官山酵素スムージー」)。中卒で働き始め三十代も半ばを過ぎ、大阪のドヤ街に流れ着いた沼田達也(「道頓堀の転売ヤー」)。とし子の中学・高校時代の友人・光代(「宝塚のティッシュケース」)ら。
とし子の「大阪のおばちゃん」然とした姿同様に、沙由美や華、達也、そして光代にも鼻につく、あるいは鼻白むようなところがある。東京で、わざわざ自宅からは不便な、意識高い系の人々が集う中目黒のヨガスタジオへ通っていたことを、〈あそこに行けば自分を好きになれた。私はこのクラスに溶け込むことができている。ここにいる皆と同じくらいかっこいい。そう思えた〉と回想する沙由美は、バカじゃなかろうかと思うし、もうすぐ二十六歳になることに嘆き、焦り、〈どれほど努力してももう二度と“若い女の子”という夢のような時代に戻ることはできない、ということがどうしても受け入れられなかった〉という華には、頭がからっぽなのかな、とさえ思う。
けれど、読みながら頭に浮かぶそうした謗りが、やがてすべて自分に返ってくるのだ。感度が鈍すぎる。悲劇のヒロインか。そんなに簡単に上手くいくわけないだろう。少しは自分の頭で考えろ。何様のつもりだよ? と毒づいて、そんな自分こそ何様のつもりだったのか、と気付かされてしまう。話がとんでもなく深い。
とし子は、岸和田で義母、夫、息子と暮らす主婦だが、芸能プロダクションに所属するタレントでもある。社長曰く、事務所は“大阪のおばちゃん”を各所に派遣することを専門にしていて、つまりとし子は、大阪のおばちゃんを演じてもいる大阪のおばちゃん、なのだ。なぜそんな回りくどいことをしているのか。話が進むうちに、そうしたとし子の背景も、徐々に見えてくる。重くて切なくてやるせない事情が明らかになり、「うち、平気やで。大阪のおばちゃん、やから。どんなしんどいことあっても、大阪のおばちゃんはいっつもにこにこ、日本の太陽や!」という言葉が、どこまで本心なのか分からなくなる。
何ひとつ共感できないし、理解し難いと思っていたのに、気が付けば、そうだよね、わかるわかる、と何度も首を縦に振っていた。安易な想像でムリムリなんて思っていた自分こそ、浅はかだったとうな垂れそうになるけれど、うな垂れてる場合じゃないぞと心強く思う。
話して、聞いて、笑う。生きていくのに、大切なことが書かれた物語だ。