「死ぬのは嫌です」と言い切れるか…太平洋戦争勃発直前の南洋サイパンで生きる日本人を描く 小説『楽園の犬』の作者が語る

インタビュー

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楽園の犬

『楽園の犬』

著者
岩井 圭也 [著]
出版社
角川春樹事務所
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784758414470
発売日
2023/09/05
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

岩井圭也の世界

[文] 岩井圭也(小説家)


岩井圭也

 小説家で今最も注目を集めている俊英といえば、岩井圭也を外すことは出来ないだろう。

『完全なる白銀』が、第36回山本周五郎賞の候補作品となったほか、本人にとっての初の書き下ろし文庫小説シリーズとなる「横浜ネイバーズ」など、様々なジャンルへの挑戦からは目が離せない。

 そんな期待の作家が新刊『楽園の犬』を刊行した。太平洋戦争勃発直前の南洋サイパン――日本と各国が水面下でぶつかり合う地で生きる日本人を描いた本作の読みどころとは? 岩井さんに話を聞いた。

■南洋を舞台にした小説の主人公はスパイを見つける側のスパイ

――『楽園の犬』の舞台は、太平洋戦争勃発直前の南洋サイパンです。南洋(諸島)は、西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々を指す、当時よく使われていた言葉。多くの人にとってあまり聞き慣れない言葉だと思うんです。この地に注目したきっかけとは?

岩井圭也(以下、岩井) 一〇年ほど前、『山月記』で知られる中島敦の全集を読んだことがきっかけでした。中島敦は亡くなる前の一年足らずの間くらいしか作家として活動をしてない人で、全集も文庫で三冊しかないんですが、その中に南洋に材を取った短編(「南島譚」など)が収録されていました。中島敦は執筆活動を本格的にスタートさせる直前に一年弱、南洋に赴任していたんです。その時期の日記も全集に収録されていたんですよ。そこで初めて南洋という地域の存在をはっきり認識して、「こんなに誰もやってなくて、面白そうな舞台が残っていたのか」と思ったんです。その頃、小説は書き始めていたもののまだプロではなかったんですが、いつか書きたいとずっと温めていました。

――同時代でも中国・満州は、「満州もの」という括りが存在するくらい小説界においてもメジャーですが、南洋は相当珍しいですよね。

岩井 ないことはないのですが、ほとんど見かけませんね。当時の満州は各国が政治的に非常に激しくしのぎを削るような舞台だったんですが、南洋はそういう舞台ではないんです。大日本帝国が国際連盟によって委任統治を託されていた場所なので、実質的に日本が治めているという認識が当時かなり強かった。ただ、枢軸国と連合国の双方にとって地理的に重要な軍事拠点だったグアムと非常に距離が近いですし、表立っての諍いはそれほどなかった代わりに、水面下での情報戦は相当あっただろうなというところから、物語の着想に繋がっていきました。

――物語は一九四〇年六月、横浜で英語教師をしていた麻田健吾が、南洋庁サイパン支庁庶務係として赴任する場面から始まります。実は、日本海軍のスパイ(=「犬」)として働くという密命を受けての渡航でした。スパイマスターは、海軍士官の堂本少佐。南洋を舞台にした、異色のスパイ小説です。

岩井 スパイの活動には二種類、情報を盗む「諜報」と、情報を守る「防諜」とがあります。普通はスパイものといえば前者で、スパイが敵地に入っていってバレるかバレないかのスリルを味わうものが多いと思うんですけど、この作品で扱っているのは防諜スパイなんですよ。スパイを見つける側のスパイなんです。そこは、今までのスパイ小説の中ではあまりない視点かもしれないなと思っています。

■「死は死」という現実があるだけ。それ以上でも以下でもない

――スパイ容疑のかかった人物が死体となって現れ、主人公がその謎を解き……と、本作はミステリー濃度が非常に高いです。スパイを見つける側のスパイである、という主人公像が作用したのでしょうか?

岩井 それもありましたし、今の自分がエンターテインメント性をどこで出せるのかと考えた時に、やはりミステリーが武器になってくるかなと思ったんです。最初は大きな謎を一つ作り、区切り目なしの長編ミステリーにすることも考えたんですが、書きたいことがいっぱいあったんですよね。それを全部盛り込みたいと考えた結果、連作長編と言いますか、ひと連なりのお話の中に四つ、五つの謎を入れ込む今の形式に辿り着きました。

――幾つもの「謎と解決」が描かれる過程で、死の美化&物語化というテーマが色濃く輪郭付けられていく感触がありました。

岩井 幾つかの謎に通底しているのは、死を肯定する当時の風潮です。「死は死」という現実があるだけで、それ以上でもそれ以下でも本来はないんです。ところが、そこにある種の物語が入ってきてしまうと、死が美しく見えてしまうことがある。死ぬことが場合によっては正義とされてしまう状況の中で、それでも「死ぬのは嫌です」と言い切れるかどうかが、ここで追求してみたかったテーマの一つでした。これは後で気付いたんですが、中島敦がそういう人だったんですよ。当たり前のように受け入れられていた当時のさまざまな風潮に対して、日記の中でどう考えても不自然だといった言葉を残しているんです。「主人公のような人、あるいは堂本少佐のような人はいたんだ」。そう確信して描き進めることができたのは、中島敦のおかげだったと思っています。

――基本はシリアスなんですが、「戦争もの」と耳にした時に想像するようなシリアス感はないですよね。なぜなんでしょうか?

岩井 南洋という土地に、一種の「抜け感」があるんですよね。確実に世界戦争が近づいていることはわかっているんだけれども、空気がパンパンに詰まっていないというか、常に空気穴があって、そこから楽天的な空気が織り混ざってくるような感じがするんです。その雰囲気も含めて、やはり満州とはちょっと違いますね。一方で、四年後には第二次世界大戦の激戦区になっていく、その落差も表現できました。

■新しい角度から切り込む「令和の戦争小説」

――小川哲さんの直木賞受賞作『地図と拳』は満州ものでした。岩井さんと同世代の若い作家たちが最近、戦争ものを書き出しているように思うのですが、連帯は感じますか?

岩井 めちゃくちゃ感じています。「自分たちがやらなければならないんじゃないか」という危機感、使命感をみんな持ち始めているんじゃないかって気がするんですよね。今までの戦争ものは「こんな悲惨な戦争があったから、繰り返してはならない」という視点から、戦争の悲惨さをドキュメンタリー的に描くやり方が王道でした。そこは外してはいけないと思うんですが、我々世代は、「なぜ戦争が起こって、どういう風に決着がついていったのか?」という構造の部分に興味がいっているのかな、と。それは今、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて戦争が肌感覚として近くなっていて、もしかしたら同じような状況がより近い場所で起こるかもしれない、じゃあ前回はどうやって戦争になだれ込んでいったのかと振り返り、探究するような想像力が時代に求められていると思うんです。

――今、歴史時代小説が非常に盛り上がっていますよね。その中でも若手が何を書いているか、例えば岩井さんの盟友である直木賞作家の今村翔吾さんが何を書いているかと言えば合戦、戦争です。ここにも同時代的連帯がありそうです。

岩井 そうですね。今村さんはずっとそのことを書いてきた人で、例えば『塞王の楯』は戦国時代の合戦の有り様に、冷戦下の核の抑止力を重ね合わせていました。おそらく、今までは戦争の時代を、現代小説の延長として見る方が多かったんじゃないかなと思うんです。「史実に沿って書かなければ」という意識が強かったんじゃないかと思う。でも、例えば僕は一九八七年生まれで、戦争を体験した世代からは二世代離れています。あの時代に対してよくも悪くも距離感があり、祖父母や父母の世代とは違った視点で書くことができるんです。つまり、今ようやく戦争が歴史小説の範疇に入り始めている。それで失われていくものもあるんですけど、それによって新しくできてくるものもある。先ほど名前が挙がった『地図と拳』の小川さんであれば満州の都市計画や建築の話、僕であればスパイものを南洋でやってみるというふうに、今まであまりやった人がいない角度から戦争に切り込んでいっていると思うんです。「令和の戦争小説」は、これからどんどん増えてくると思います。

――ただ、誤解のないよう最後に大きな声で伝えたいんですが、本作はどエンタメなんです。なおかつ、非常にリーダビリティが高い!

岩井 ありがとうございます(笑)。僕からも、「戦争もの」という感じで肩肘張って読んでいただくよりは、「面白いミステリー小説を書いたからみんな読んでね!」と伝えたいですね。そのうえで、戦争についてはもちろん、死ぬことや生きることに関しての考察もできるような、多層的な読みを楽しめる作品になったと思うんです。

【著者紹介】
岩井圭也(いわい・けいや)
1987年大阪府生まれ。北海道大学大学院修了。2018年『永遠についての証明』で第9回野性時代フロンティア文学賞を受賞し作家デビュー。著書に『文身』『水よ踊れ』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』などに加え、書き下ろし文庫シリーズ「横浜ネイバーズ」がある。

構成:吉田大助 写真:長屋和茂

角川春樹事務所 ランティエ
2023年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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