スパイ小説は人間不信の物語である。気鋭作家が挑む「国家と個人」

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スパイ小説は人間不信の物語である。気鋭作家が挑む「国家と個人」

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

 個人の命より重い国はあるのか。

 戦争とは、国が多数の命を消費して挑む事業である。では、その方針が誤っていたら。命を捨てるよう強いられる個人には何ができるのか。

 岩井圭也は、デビュー五年にして多数の意欲作をものにしてきた気鋭の作家だ。新作『楽園の犬』ではついに戦争という大きな問題に挑む。

 一九四〇年、元教師の麻田健吾は、南洋群島のサイパンにやってくる。表向きの身分は南洋庁サイパン支庁庶務係だが、実は海軍武官補・堂本頼三の配下となり、民衆の動向に目を光らせることが真の任務であった。つまり海軍のスパイである。

 サイパンの巷で情報収集を開始した麻田は、「尽忠報国」と記された書き置きを残して漁師が縊死を遂げた事件、沖縄出身者と現地のチャモロ人との心中など、さまざまな変事に遭遇する。事件にアメリカとの内通者が関わった可能性がないかを麻田は見極めていかなければならない。

 南進論を唱える海軍にとって、サイパンは最前線の拠点だった。そこで起きる出来事を監視し続ける男による防諜活動が描かれる。スパイ小説は人間不信の物語であり、誰が正体を隠して行動しているのかわからないという状況が緊張感を生む。堂本の「犬」である麻田は、それが露見すれば身に危険が及ぶのだ。

 当時のサイパンでは同化政策が推進されていた。現地人に日本語使用を強制する教育は、避けがたい心の歪みをもたらしたのである。エピソードの積み重ねにより、作者は楽園に生じた澱みを浮かび上がらせる。

 サイパンは痛ましい集団自決の起きた地だ。物語の後半ではついに対米戦争が勃発し、不可避の結末へ向けて時計の針は進んでいく。犬に徹してきた麻田は、果たして自分を取り戻すことができるのか。そして国家から強制される死に、どのようにして抗うのか。終盤の展開は圧巻で、静かな余韻がある。君死に給うことなかれ。国の為に死ぬことなかれ。

新潮社 週刊新潮
2023年10月19日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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