<書評>『楽園の犬』岩井圭也 著

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<書評>『楽園の犬』岩井圭也 著

[レビュアー] 青木千恵(フリーライター・書評家)

◆開戦直前、南洋群島の闇

 日本と米英が対立を深めていた1940年、日本が統治し、南進政策の前線地だった南洋群島では、あらゆる種類のスパイが跋扈(ばっこ)していた。本書は、太平洋戦争が勃発する直前の、南洋サイパンを舞台にした長編小説である。

 主人公の麻田健吾は、東京帝国大学を卒業して英語教師になったが、持病の喘息(ぜんそく)が悪化してしまう。旧友から持ちかけられた、転地療養を兼ねた南洋庁サイパン支庁への転職は、海軍のために情報を集める“犬”、スパイになることが条件だった。病状が回復し、仕事もあるなら妻子は安心するだろうと承諾した麻田は、40年11月、サイパンに単身で赴任する。到着から6日後、“飼い主”の海軍武官補、堂本頼三少佐から命じられたのは、鰹(かつお)漁師の自殺を探ることだった──。

 物語は主に4章で構成され、自殺、心中、殺人などの事件を麻田が解き明かしていくミステリー仕立てである。麻田の“飼い主”の堂本少佐もまた、謎めいた存在だ。<君は米英と開戦すべきだと思うか?>と、初対面で麻田に尋ねた堂本は、無表情なエリート将校で、底の知れない男だった。留学経験がある彼自身に、“アメリカ側の人間”という疑惑があった。

 警務係の武藤警部補、チャモロ人のローザ、チャモロ人で警務係で働くシズオら、多くの人と出会い、歴史の波間に消えていく人々の死に触れる中で、麻田は自らの考えを紡いでいく。<死に触れるたび、どうしようもない生命の軽さが、記憶の底に降り積もった。人の命がこんなにも美辞麗句で装飾され、こんなにも粗末に扱われていることを、麻田はこれまで知らなかった>。病を抱える麻田にとり、死は他人事ではなく、美辞麗句で済むものではない。

 麻田が赴任して約1年後の41年12月8日、日本は米英と開戦する。開戦へと突き進む時代の南洋を主な舞台にしながら、長い時間を捉えたスケールの豊かな物語だ。時代のうねりの中に存在していた「個人の思い」に、熱く胸打たれる。読み応えのある、優れた長編小説だ。

(角川春樹事務所・1980円)

1987年生まれ。作家。2018年、『永遠についての証明』でデビュー。

◆もう1冊

『南洋通信 増補新版』中島敦著(中公文庫)。小説『楽園の犬』の参考資料の一つ。

中日新聞 東京新聞
2023年10月29日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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