『楽園の犬』
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『楽園の犬』岩井圭也著
[レビュアー] 金子拓(歴史学者・東京大教授)
戦前の島 スパイの密命
「楽園の犬」、この駘蕩(たいとう)たる雰囲気を醸す書名とは裏腹に、物語は秋霜烈日という言葉を想起するほど厳しい。昭和15年に始まり、戦争を挟んで戦後まで、「楽園」とはサイパン島を指す。本作の舞台である。「犬」とは権力の手先を喩(たと)えた語であることが、読みはじめてすぐに示される。
主人公は、中島敦を連想させる、喘息(ぜんそく)の持病のために女学校の英語教師を辞めざるを得なくなった一高・東大出の俊英である。それでも仕事をして家族を養わなければならない。彼は友人の紹介により南洋庁サイパン支庁に職を得、妻と幼い息子を日本に残し単身その島に赴任する。島で彼を待っていたのは、在勤武官補の海軍少佐であった。彼は少佐により、島内に跋扈(ばっこ)する海外の諜報(ちょうほう)員たちから機密を守る任務を命ぜられる。いわゆる「防諜」スパイである。
物語は、主人公が島内で発生したいくつかの事件に防諜の立場からの調査を命ぜられ、事件の真相を追いかける筋立てで進む。殺人事件の背後に潜む意外な真実を解き明かす謎解き(ミステリ)の妙味と、相手にスパイと気づかれずに行動をしなければならない(発覚すると命にかかわる)立場にいることの綱渡りの緊張感(スリル)が高い次元で結びつき、読んでいていつの間にかその世界に没入している。支配する日本人と支配される島民、移民である日本人社会のなかでの出身地や職業による格差、軍人と民間人の立場の違い、さらに海軍と陸軍の微妙な思惑のすれ違いなど、この時期の南洋社会ならではの対立軸が複雑にからみ合い、それが登場人物たちの粒立った造形と相まって、リアリティを物語に与える。
かつて抑圧した側に属する者として、苦みをおぼえずにはいられない場面があった。なぜそこに胸苦しさを感じたのか、読み進むと理由がわかってくる。作者の術中にはまるのも一興だ。電車で読んでいて、下車すべき駅で思わず乗り過ごしそうになった。久しぶりの体験である。(角川春樹事務所、1980円)