『事件』
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なぜぼくをひと思いに殺してくれないんです
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「裁判」です
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殺人事件の裁判をこれほど丹念に描いた小説はそう多くはないだろう。
一九六一年から六二年にかけて「朝日新聞」に連載され、その後、新潮社から単行本が出版された大岡昇平の『事件』。ミステリ好きで知られた大岡らしい力作。
一九六一年の夏、神奈川県の厚木に近い小さな町の山林で刺殺体が発見される。厚木で小さな飲み屋を開いている若い女性だった。
容疑者はすぐ逮捕される。地元の十九歳の少年で、被害者の妹と付合っていた。その交際を姉である飲み屋の女性に反対され殺した。
少年は自白したから殺人及び死体遺棄で起訴された。
大岡昇平はこの裁判の過程を、裁判官、検察官、弁護士の立場から驚くほど克明に描いてゆく。裁判劇の臨場感がある。
全国紙には載らない小さな事件だが、丁寧な裁判の描写で迫力を持ってくる。大岡昇平が「あとがき」で書いているように「犯罪は『事件』として、われわれの運命を変える」。裁判劇は人間のドラマでもある。
裁判の焦点は少年に殺意があったかどうか。弁護士が目撃者たちの証言の矛盾を衝いて事実を明らかにしてゆくのがみごと。判事もその反対尋問の技術に素直に感嘆する。
この弁護士の奮闘で少年の殺意は否定され、刑は予想より軽くなる。しかし、少年は判決後、「間違いにせよ、とにかくぼくが殺したんだ。なぜぼくをひと思いに殺してくれないんです」と自分を責める。その姿が痛ましい。