「弥勒」シリーズを読むたび、人はきわどいバランスの中で生きているのだと気づかされる

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野火、奔る

『野火、奔る』

著者
あさのあつこ [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334100940
発売日
2023/10/25
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

あさのあつこ『野(のび)、奔(はし)る』刊行記念「弥勒(みろく)」シリーズを生きる

[レビュアー] 折笠由美子(校閲者)

売れ行き絶好調の「弥勒」シリーズがついに一一〇万部を突破した。
ニヒルな同心と元刺客の商人。男と男のひりつく対峙に、私たちは魅了されてきた。
シリーズ十二作目となる『野火、奔る』の刊行を機に、一作目の『弥勒の月』からずっと校閲者として伴走してきた折笠由美子氏に、このシリーズの魅力について寄稿してもらった。

 ***

過去に深い傷を受けた者や、過ちを犯した人間が立ち直ることは容易ではないが、前向きに生きるためには自己肯定感を高めることが欠かせない、その際に最も支えとなるのは自分を愛し受け入れてくれる人間の存在だろう。そういう人がいてこそ自分は価値ある人間だと実感でき、社会の中で生き直すことができる。

「弥勒」シリーズは江戸を舞台にしたミステリー、いわゆる捕物帳だが、そこに登場する遠野屋清之介(とおのやせいのすけ)も生き直しをしている人間だ。

 彼は西国にある小藩で重臣の妾腹(しようふく)の子として生まれ、父によって暗殺者に育てられた過去をもつ。十五歳で初めて人を斬ってから父の命で数々の命を奪ってきた。その後父を斬り、兄の助言を受け脱藩、二十歳前に江戸に出ておりんという女に出会う。

 清之介は小間物屋の娘・おりんの婿となり、町人として新たな生を手に入れることになる。

 だが、そのおりんが不可解な死を遂げ、そこに清之介の過去が関わっていたことを知る。

 おりんの死後、彼女が授けてくれた生を生きること―遠野屋の主として店を繁栄させ次代に繋いでいくこと―が己にできることだと思っていた清之介だが、やがて自分は心の底から商売をしたいのだと気づく。商売を大きくし、それによって人の世を変えたい、と。

 予定調和のドラマならここで幕となるかもしれない。けれども「弥勒」シリーズはここから始まっていく。

 せっかく前を向こうとしている清之介の過去を、ことあるごとにちくちくと指摘し、心を苛もうとする者が現れるのだ。それが北町奉行所定町廻(じようまちまわ)り同心・木暮信次郎(こぐれしんじろう)である。信次郎は、清之介の心の奥底に潜んでいるもの―人斬りの業をひっぱり出したくてしかたがない。

 信次郎は、怜悧(れいり)で酷薄でものごとの本質を見抜く目を持つ。彼の大好物はものごとの表面にまどわされないで、隠された真実を暴き出すことだ。その才を使って江戸で起こる難事件の数々をみごとに解決してゆく。当たり前の事件では興を覚えず、ねじくれていてなかなか解けそうもない難題であればあるほどご機嫌になるという変わり者。いわば鬼才だが、その才は目の前の人物にも向けられ、隠し事やためらいなどあっというまに引きずり出してしまう。人の心を読めるのは母親ゆずりらしく、論理的でありながら勘も図抜けていて、俯瞰で見る力をもちつつディテールも見逃さない。彼にとっては自分の肉体など邪魔でしかなく、思念そのものの中に没入したい人間に見える。

 その信次郎が唯一執着しているのが清之介だ。清之介は退屈していた人生に現れた唯一無二の獲物なのだから逃がすわけにはいかない。

 清之介はといえば、自分の中にある異形に気づきながら、それを封印して生涯を終えることを望み、そのことができれば自分の勝ちだと信次郎に宣言する。

 そのため「弥勒」シリーズでは毎回清之介と信次郎とのひりひりする神経戦が繰り広げられ、事件の謎解きと並ぶ大きな柱となっている。

 おりんが光へ向かう道を示す菩薩(ぼさつ)だとしたら、信次郎は、闇に気づかせようとする邪神だ。

 信次郎の岡っ引を務めている伊佐治(いさじ)は、信次郎と清之介との間に割ってはいり、宥(なだ)めたり、苦言を呈したり、励ましたりと忙しい。

 伊佐治には、自分の考える人間像を超えたものを二人に見て、人間の得体のしれない面を感じつつ、それを味わえる感性がある。清之介は彼を「老獪(ろうかい)でありながら、一本気で生真面目で、度量が大きい」と評し、人間としての深みを見るが(『東雲(しののめ)の途(みち)』)、当の伊佐治は毎回信次郎が抉(えぐ)ってみせる人間の本性に、恐ろしさとともにおもしろさを感じるのだから、凡庸な岡っ引ではない。

 一方、当たり前の枠に収まらない信次郎は、自分と同じように通常の人間のスケールを超えた人物に一目置く性質をもっている。

 例えば『花を呑む』では、単なる悪人の域に収まらない人物に次のように言う。

「おめえに間違いないと思えたぜ。他人(ひと)を容易く信じ込ませる力を感じたからな。優しくて儚げで品があって、誰でもつい心を許しちまう。(略)『信じてもいい相手だ』、『こちらの想いを汲み取ってくれる』。そう思わされちまう。まったく、たいした手管(てくだ)じゃねえか」

 これは誰かに重なるのではないか? そう清之介だ。事実信次郎は『地に巣くう』で「ご本人さまは気が付いてねえんだろうが、遠野屋清之介ってのは、なかなかの誑(たら)しなんだぜ」と笑うし、伊佐治もまた「楓葉の客」(『木練柿(こねりがき)』に収録)で、清之介には人の心を掴み、操る力があることを見てとり、それが商人の枠を越えることを恐れる。

 シリーズ十二冊目となる最新作『野火、奔る』では、この人誑しの才が、意図せずして禍を呼び寄せる一端となる。

 物語は、遠野屋の三駄の紅餅を積んだ船が江戸湊に入港せず、忽然と消えてしまったことから始まる。紅餅とは紅花に手を加えて煎餅(せんべい)状に乾かしたもので、世間に名高い「遠野紅(とおのべに)」を作るために必要不可欠だ。

 ほどなく、弥勒寺裏の路地で血にまみれた遺体が一体発見される。

 一見町人風だが、武士だろうと信次郎は見抜き、遠野屋を襲った凶事に関係があると推測する。そして事件の背後に複数の人間の欲望や陰謀が絡んでいることを明らかにしていく。

 口から毒を吐き、相手の感情をゆさぶるのは信次郎の得意技だが、それは今回も遺憾なく発揮されている。

 相手の弱みを的確に見抜き、追い詰めていく―これは信次郎に顕著だが、なにも彼だけの専売特許ではない。考えてみると、このシリーズには暗示によって人を操ろうとする人物も登場する。おりんが死んだのも、ある人物の暗示のせいだ。その人物が育てた者もやはり暗示によって犯罪に人を誘(いざな)ってゆく。

「弥勒」シリーズでは、このように、人が言葉や暗示によって相手の心を操る場面がところどころにちりばめられている。人間の心はそれほど強いものではなく、ある部分を突かれるともろくも崩れてしまうことを読み手は思い知らされるのではないか。人は自分で自覚でき受け入れられる弱点はある程度ガードできるものの、意識下の部分や、意識と無意識のあわい、あるいは認めたくない部分に手を突っ込まれるとひとたまりもない。

 また、最新作では、信次郎が、これまでにも増して辛辣(しんらつ)なことを清之介に告げる。

 清之介のなかにある業が、父親をはじめとしたさまざまな人の欲望に火をつけるのではないか、と。

 かつておりんの父は、清之介について「人を惹き付け、呼び寄せ、使いこなす。それができる男だ」と言ったことがある(「木練柿」)。

 ならば清之介に魅了される者が出てくるのは当然だが、そこに目をつける者が現れてもおかしくはないし、優れた才を妬(ねた)む者が現れても不思議はない。

 清之介は『冬天の昴(すばる)』では大店(おおだな)の内儀から思いを寄せられるが、まったく気づかない。遠野屋の奉公人のおうのは「あれほどの男でも……(略)見落とすものなのか」と吐息を漏らし、後に清之介は自分の迂闊さを反省するが、気を向けたくなかった、というのが本当のところなのではないか。見たくないもの、知りたくないものは意識下の次元で排除してしまうのが人間なのだから。

 人を疑うのは必要最小限にしてまずは相手を信じるほうが楽だし、自分をまともな人間だと信じられて気分がいい。人の面倒な感情は避けたい―そう生きられるなら誰でもそうしたい。

 だが信次郎はそうした考えに与せず、清之介の甘さを指弾する。人を斬るために生まれてきた者が商人の型に嵌(は)まろうとするから無理が生じ鈍くなる、と。

 今回は清之介と信次郎が協力して事件を解き明かしていく側面はあるものの、一方で、信次郎はこれまで以上に清之介に手厳しい。

 人を信じることと邪心を見抜くこと、意識下に押し込んだ自分の気持ちを明らかにすることと、押し込んだまま安寧を望んで生きていくこと―「弥勒」シリーズを読むたび、人はきわどいバランスの中で生きているのだと気づかされる。何気なく生きているようでも、人は常に注意深く選択を重ねて生きているのではないか、そうでなければ、例えば一瞬の気の緩みや快楽、見栄を選んだりすれば、あっという間に闇に落ちてしまうのではないか、と。

 清之介が内なる埋(うず)み火を抑えて生きていけるのか、それとも自分の闇と向き合わざるを得ない事態になり、大きく変わるのか、目が離せない。父が残した闇の者たちを、商売のためとはいえ使いこなしていっているのも気にかかる。これは伊佐治が危惧した〝商人の枠を越えること〟に繋がらないのか。

 皮肉なことに(?)信次郎が刺戟(しげき)すればするほど清之介の心は鍛えられ、商人としても人間としても大きくなっていく。それは同時に信次郎にとって己の獲物が肥え太っていくことでもある。

 また、性悪さ以外無敵と思われる信次郎だが、彼がそう振る舞えるのは、常に自分が感情の渦の外にいるためだ。けれども清之介と関わる中で、ときに試され、翻弄されていると感じることがある。自分の中に感情をささくれさせる理に合わないものがあると知り、いらいらさせられるのだ。その感情が大きくなり、彼自身が変わることがあるのだろうか。

 二人がひきおこす化学変化は巻を追うごとにさまざまに変容し、大きくなっていくが、今回の作品でもたっぷり楽しむことができる。

 また、ラストの一ページで驚くべき展開があることも付記しておきたい。

光文社 小説宝石
2023年11・12月合併号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

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