『思い出の屑籠』
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知らないことなのに懐かしい 今、蘇る「百歳の少女」のまなざし
[レビュアー] 立川談四楼(落語家)
佐藤愛子さん(2023年10月11日撮影 (C)中央公論新社)
前書きに「百年生きて最後、絞りきったダシ殻ではありますが、お読みいただければ幸いです」とあります。もう著者の新作は読めないと思っていただけに飛びつきました。きっとあなたもそうでしょう。
幼少期の思い出です。ところは甲子園に近い兵庫県鳴尾村字西畑(現・西宮市)で、大正から昭和の初めの暮らしが描かれます。最初の記憶が二歳で、そんな時分のことを覚えているものかと疑問に思いますが、著者は「本当なんだからしょうがない」と言います。
作家の父、日がな一日何もしない母に加え、乳母や使用人のほか何人もの書生がいて、著者はばあやに可愛がられます。恥ずかしがり屋で泣き虫の著者の目には、子どもゆえ理解の及ばないこともありますが、それら身辺のことが綴られます。
読み進むうち、何とも言えない懐かしさを覚えます。著者と私は親子ほど歳が違い、育った環境も時代も異なるのにです。大工の父親、出入りする職人たち、タバコと雑貨を商う母、大勢の客、それを眺める私という具合に、幼少の頃が鮮やかに浮かび上がってくるのです。今ではそういうことかと分かりますが、子ども故に理解が及ばなかったことまでがです。
八郎という兄が出てきます。読者は異母兄の詩人・サトウハチローのことだろうと見当をつけますが、長男なのに八郎の謂れくらいで、後の詩人であるとの言及はありません。父がどんなものを書いていたのかもです。本書は全編、著者の幼少の目で描かれます。説明はありません。それ故に読者は自らの幼少時を味わうことができるのです。私は亡き両親や弟、あるいは親戚のオジさんやオバさん、従兄弟たちとの思い出までが蘇り、懐かしさを存分に味わいました。
著者は怖るべき人です。私のこれから先の目標は「百歳の佐藤愛子」のように生きることです。