『パッキパキ北京』
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自前の表彰台からきらめきを見に行こう
[レビュアー] 斜線堂有紀(作家)
図太く生きるためのコツ、「精神勝利法」とは?
読む手が止まらないほど面白い。元気になる。だが一体これは何だ? これが読んでいる最中の感想だった。破天荒で自由な「人生エンジョイ勢」である菖蒲は、夫に呼ばれて北京へと渡る。そこで菖蒲は思うがままに北京を楽しみ尽くす─。あらすじの通り、最初から最後まで菖蒲は北京を遊び倒す。観光地から買い物場所、食から小さな文化まで、知らない北京が矢継ぎ早に語られる様を読んでいるだけで面白い。菖蒲は中国特有の通販サイトで買い物を楽しみ、珍味に舌鼓を打ち、すぐさま現地で友人を作り、中国の赤色の種類の豊かさに心を躍らせる。うわ~北京行ってみたいな、と素直に思う。
菖蒲の手にかかれば高熱に苦しむ夫を看病するシーンですら楽しい。建物の杜撰な工事にも美点を見出すし、言葉が通じなかろうと物怖じしない。周りから引っかかるようなことを言われても、軽やかに切り返してみせる。なので読んでいて楽しく、ストレスが無い。ああ、菖蒲はいいなあ!
そう思って読み進めている内に、読み手は違和感を覚える。こんなに明るくて楽しいのに、なんだか心がざわつく。そして気づく。これがある意味でのSFであり、そのSF要素とはこの超人・菖蒲に他ならないことに。
菖蒲のポジティブさや適応力は明らかに普通の人間のそれではない。こんなにフラットに明るく全てを楽しめる人間っている? と思うのだ。この造形は極めて意図的で、作中では他ならぬ彼女の夫が訝しげな目を向ける。そもそもこの夫は、北京に馴染めずに菖蒲を呼び寄せたくらいなのだ。
決して菖蒲は何も考えていない楽天家ではない。不意に差し込まれる冷静な述懐や、怒りを“炎症”と呼んで切り離す様子は、彼女の性質が彼女の割り切りの末に生まれた研ぎ澄まされたパーソナリティーだと分かる。
菖蒲になりたい。でも“普通の人間”はもっと弱くて適応力の無い存在じゃない? と、読み手側も少し気後れする。そこで出てくるのが一九二〇年代に中国で書かれた『阿Q正伝』の「精神勝利法」だ。阿Qはどんな目に遭っても、この精神勝利法によって自分の苦しみを切り離し、図太く生きていく。作者の魯迅は阿Qを愚かな人物と描いたが、菖蒲は自分を勝者だと思い込み続ける「精神勝利法」に感銘を受ける。
ここを読んで、ようやく菖蒲の超人ぶりが腑に落ちた。つまり彼女は、この理論から逆算して生み出されたのだ。
菖蒲は「精神勝利法」に感銘を受けて、それを実践できる人間になろうと決めるが、そこまでを読んでいた読者には、菖蒲がもう既にある程度それを実践できているんではないかと思う。冷静に社会を見つめながらも、自分を腐らせることなく精神的に勝利し続けている。その結果、北京をフラットに楽しみ尽くせるのだ。
私達が菖蒲の見る世界を魅力的に感じれば感じるほど「じゃあ結局私達に必要なのって、自分は勝っていると思い込むことなのかも?」と思う。これは自信を持たない私達に贈る、優れたエンパワメント小説でもあるのだ。