「私たちはみな、偶然中絶されなかった子どもなのだ」

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

「わたし」という偶然のフィクション

[レビュアー] 高山花子(フランス思想研究者)

一度でも「なぜ自分は存在しているのだろう」と思ったことがある人へ

「わたし」をめぐる激しい本だ。一度でも、なぜ自分は存在しているのだろうと思ったことがある人は、一読する価値がある。そして、現代の「生殖」をめぐるあれこれに、わずかでも違和感を覚えたことがある人は、読めば新たな世界が開ける。

「わたし」は非嫡出子として生まれた。叔母によると、母親は、彼を産む前に、二度、人工妊娠中絶をしていたらしい。ただしそれも伝聞に過ぎず、本人にたしかめたわけではないから、本当のところはどうだったのかわからない。大学卒業後に亡くなった父親は、「わたし」のために遺書を残していた。しかしそれがなければ、彼のもとには嫡出子の半分しか遺産が入らなかった。おまけに、嫡出子の兄姉からは、相続を手放すよう非公式に要請があったという。「わたし」は、出自による根深い差別を法的に体験している。

 一般に反出生主義と呼ばれる立場にさえ刻まれる不可視の優生主義を「わたし」は静かに見抜く。いまもなお、中絶する権利の前提には、「不良」な子孫の出生を防ぐ意図が消え去っていない。それどころか、自由の名の下に、ときには障害のある子の出生を選択する責任が女性に押し付けられている。出生にはつねに健常者が想定されている構図が暴かれるのだ。「わたし」は哲学史をたどりながら、規定された良き生からも良き死からも離れて、「わたし」のいのちを思考してゆく。そのとき生命とは、未着床であれ、流産であれ、人工妊娠中絶であれ、あくまでも偶然、中絶されなかったことによってのみ定義されるのだと確認される。

「わたし」の主張は明快だ。わたしたちは誰しも、「わたし」以前に中絶された存在があったからこそ存在している。だからわたしたちはみな、偶然、中絶されなかった子どもなのだ。そして、中絶された胎児と、生まれてきた人間存在とは、じつのところ交換可能だった。この両者のあいだの微妙な閾こそが、存在論的中絶である。宇宙的な視野に立てば、人類が絶滅=中絶したとしても、地球上の生命は増えつづけ、いずれにせよ世界のエントロピーは増大してゆく─そうしたダイナミクスのなかで、中絶によってありうる/ありえた別の生について思考を可能にする条件として、このキータームは駆動している。

 あざやかなのは、過去作『錯乱の日本文学』と『政治的動物』において探究された建築や非人間をめぐるテーマを随所で想起させつつ、今回、とりわけ大江健三郎『水死』と埴谷雄高『死霊』が鋭く分析されていることだ。ベケットやメルヴィルも召喚され、スピノザと稀有な混淆を果たしている。中絶だけでなく自殺の選り好みがブルジョワには可能であるいっぽう、それらを選ぶことすらできないまま貧困にあえぎ、声を押し殺すマイノリティのいる現実を、たとえばALSで死んでいった統合失調症の友人のエピソードから炙りだす「わたし」の筆致は、ジャンルの越境といった言葉では表現しきれない、まったく起源の不確かな、固有のフィクションの言葉をつかみとっている。

河出書房新社 文藝
2024年春季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク