5作の芥川賞候補作 当たらないだろうが本命を占ってみると
[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)
第170回芥川賞・直木賞の候補作が発表された。芥川賞候補は次のとおり。
安堂ホセ「迷彩色の男」(文藝秋季号)、川野芽生「Blue」(すばる8月号)、九段理江「東京都同情塔」(新潮12月号)、小砂川チト「猿の戴冠式」(群像12月号)、三木三奈「アイスネルワイゼン」(文學界10月号)。
前回、対象期間後半の作品が候補になりがちという話をしたが、やはりその傾向はうかがえる。「なぜあれが入ってない? なんでこんなのが入ってるんだ?」という疑問や不信は毎度のことながら、今期は総じて不作気味だったとはいえ、ちょっと混戦すぎて甲乙のつけようがないラインナップである。
当たる気がしないが強引に予想しよう。本命は、九段「東京都同情塔」だ。
主題は言葉と建築。先の東京五輪で新国立競技場がザハ案のまま建立された並行世界の東京が舞台だ。女性建築家である「私」は、新宿御苑に新設される「シンパシータワートーキョー」計画に従事している。
この塔の実態は巨大刑務所なのだが、「誰一人取り残さないソーシャル・インクルージョンとウェルビーイングの実現」という旗印の下、犯罪者を「ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人々)」と呼び変え犯罪者差別解消をうたい、ソーシャル・インクルージョン先進国としての日本をアピールするランドマークたることが目指されている。……という具合になかなか悪意に満ちた作なのだが、追求されるのは、現実は言葉によって作られるが、「アンビルトになるべきだった」(建設されるべきでない)現実も構築してしまうのではないかという問いである。
その点で興味深いのは、同時に候補に並べられたことで、九段作が川野「Blue」に対する批判として機能していることだ。
特集「トランスジェンダーの物語」内で発表された「Blue」は、流布されてきたLGBTをめぐる「物語」を小説に落とし込んだものといえるが、そうした「言葉」が構築した現実は、本当は「アンビルトになるべき」ではなかったか? と九段作が問い掛ける構図になってしまっている。