『ドゥルーズ=ガタリと私たち 言語表現と生成変化の哲学』平田公威著

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『ドゥルーズ=ガタリと私たち 言語表現と生成変化の哲学』平田公威著

[レビュアー] 郷原佳以(仏文学者・東京大教授)

「差異」究極の疑問、徹底追究

 ドゥルーズ=ガタリ(以下D=G)といえば、ポスト構造主義を代表する共著を成した二人の哲学者である。いったい「D=Gと私たち」とはどういうことだろうと首を捻(ひね)る読者もいるだろう。

 しかし、本書の問いは表題通りである。つまり、D=Gの哲学は「私たち」に関わらないのか、関わるとすればどのように、というものだ。では、「私たち」とは誰か。自分たちのことを「私たち」と認識し、「私たち」と呼ぶ物体である。そのような私たちは、いま読んでいる物体を新聞と同定する「同一性」と、そのような同一性を課す「表象」という認識形態なしには生活できない。ところが、D=Gが打ち出したのは「差異の哲学」だ。「差異の哲学」とは、同一性に基づかずに(新聞と雑誌の違いを取り出すのではない仕方で)差異を第一のものとして肯定する超越論哲学であり、同一性や表象は批判の対象だ。ならば、彼らの本を同定して読む私たちは、結局のところ、彼らの哲学に場を占めないのか、経験的な私たちは彼らの哲学に関係がないのか。「私たち」であらざるをえない私たちが抱く究極の疑問を本書は徹底的に追究する。

 著者はこの問いを携えて著作を読み進め、一つ一つ答えを出す。結論から言えば、『差異と反復』の時点では「私たち」の場はない。差異が「強度」や「出来事」として語られる哲学にとって、「同一性」や「表象」は錯覚でしかない。ところが続く『意味の論理学』から様子が変わってくるという。「私たち」は「出来事」とある仕方で関わることが可能になり、超越論哲学の裡(うち)に場をもつようになる。いかにしてか。

 本書が独創的なのは、この「いかにして」の部分を、相対的にマイナーな言語学との関係から読み解くことだ。たとえば、「彼が歩いている」という表象の一歩手前にある「歩くこと」という出来事の不定法、同一的な「私」に還元できない過去時制の可能性。「差異」と言語学と言えばソシュールが連想されるが、そこから少しずれたところにD=Gは「私たち」の差異への通路を見(み)出(いだ)したようだ。(水声社、4950円)

読売新聞
2024年3月29日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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