あのホームズも手のひらの上で躍らせる、天才「犯罪者」――『憂国のモリアーティ』|中野晴行の「まんがのソムリエ」第58回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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犯罪界のナポレオン・モリアーティ教授が歪んだ世の中を救う!?
『憂国のモリアーティ(1)』原案:コナン・ドイル 構成:竹内良輔 漫画:三好輝

 イギリスの作家、アーサー・コナン・ドイルがシャーロック・ホームズ・シリーズの第1作『緋色の研究』を発表したのは1887年。今年2017年は130周年だ。ドイルが執筆したホームズ・シリーズには4作の長編と56作の短編があり、最後のエピソードになった短編「ショスコム荘」(『シャーロック・ホームズの事件簿』に収録)の発表は1927年。つまり完結からも90周年。長い年月を経ているにもかかわらず、その人気は今なお衰えることがなく、次々に映画やテレビドラマがつくられ、さまざまな作家の手でパロディやパスティーシュが書かれている。日本でも芦辺拓や北原尚彦、柄刀一、柳広司ら多くの作家がそれぞれに魅力的なホームズ外伝を発表しているが、今回はユニークで個性的なマンガ版ホームズ・パスティーシュを紹介しよう。
 竹内良輔/構成、三好輝/作画の『憂国のモリアーティ』である。

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 主人公は、ホームズの宿命のライバルと言われるウィリアム・ジェームズ・モリアーティ教授。『シャーロック・ホームズの回想』に収録された短編「最後の事件」によれば、教授は21歳で「二項定理」の論文を発表し、地方の小さな大学の数学教授だったこともある天才。一方では、その頭脳を駆使してロンドンに暗躍する悪党たちの統領となり「犯罪界のナポレオン」と評される存在でもある。
 ところが、『憂国のモリアーティ』では、原作の世界観をきれいに裏返してしまう。つまり、ホームズの活躍はイギリスを舞台にモリアーティ教授が仕組んだ空前のプロジェクトの表向きの姿だというのだ。ホームズも相棒のワトソンも、モリアーティが演出する舞台の重要な登場人物にすぎない。裏ですべての筋書きを考え、実行し、目的を果たすのはあくまでも天才・モリアーティなのだ。

 舞台はドイルの原作と同じ19世紀イギリス。人々は生まれ落ちた家の格と血で一生涯の身分が決まる完全階級制度によって分断されていた。人口の3%にも満たない王族や貴族たち上流階級が国を支配する歪んだシステムによって、労働者や農民は隷属者として差別され、多くの人々が苦しんでいた。
 そんな世の中に疑問を持ったのはモリアーティ伯爵家の長男・アルバートだった。彼は、孤児院から博学で天才的な頭脳を持つ少年と彼の病弱な弟・ルイスを引き取る。やがて、彼ら3人は共謀して伯爵の家族を火災を装って殺害。孤児の兄は、アルバートの弟・ウィリアムと入れ替わり、3人は理想の世界を実現するために動き出したのだった。
 13年後、アルバートはロンドンで陸軍中佐としての任務につき、ウィリアムはイングランド北東部の街・ダラムの大学で数学の教鞭を執っていた。モリアーティ家の領地や屋敷の管理はルイスの役目だった。表の顔とは別に彼らが手を染めていたのは、貴族たちから苦しめられる人々の依頼で、腐敗した貴族を完全犯罪で抹殺すること。悪を排除する日本の「仕掛け人」のようなものだ。

 ダラムで、横暴な領主・ダブリン男爵や、大地主でもあり、学生たちを食い物にしている大学事務員のダドリー卿を葬ったウィリアムとルイス、そして彼らの仲間に新たに加わった射撃の名人・モラン大佐、密偵で変装の名人・ポーロックは、アルバートが追うアヘン密売事件を解決するためにロンドンへと戻ってくる。
 ロンドンに戻ったウィリアムが目論んだのは、階級制度をゆさぶるためにロンドンを犯罪都市にすることだった。犯罪と死に意味を持たせることで、市民の目の前に階級制度という矛盾を顕にしようと企てたのだ。
 必要なのは民衆がその境遇に賛同できる犯人と、腐敗を暴く探偵。ウィリアムが探偵役として選んだのが、シャーロック・ホームズだった。
 探偵役としてのホームズの適性を試すため、アルバートは殺人事件を仕組む。ドレッパー伯爵が何者かに殺害され、床に「シャーロック」という血文字のダイイングメッセージが見つかったのだ。警察は犯人としてホームズを捕らえたが、事件の背後に、素人の実行犯と頭の切れる真犯人がいることに気づいたホームズは現場に落ちていた指輪に注目する。

 ホームズ・ファンならお気づきのように、ベースになっているのはホームズシリーズ最初の長編「緋色の研究」である。つまり、ホームズの活躍は、そもそものはじめからウィリアムが仕組んだことだったのだ。
 コミカルなホームズやワトソン、ハドソン夫人の描かれ方に、ホームズ・ファンはちょっとがっかりするかもしれないが、腐りきった貴族たちを次々に葬り去っていくウィリアムたちの活躍は、実にクールでかっこいい。原典の「最後の事件」の挿絵では怪しげな老人として描かれているウィリアムや彼の仲間たちが美形、というのもいい。
 ホームズのパスティーシュとして面白いだけでなく、ピカレスクロマンとしても傑作だ。

中野晴行(なかの・はるゆき)

1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2017年9月6日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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