敵機から機銃掃射、見送った船は沈没……直木賞作家・安西篤子さんが語る、上海で体験した盧溝橋事件

エッセイ・コラム

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盧溝橋(photo by kaurjmeb)

特別寄稿・安西篤子「あのとき私は敵国にいた」

日中戦争の発端となった盧溝橋事件を上海で体験した作家の安西篤子さん。当時、家族とともに蒋介石の住居の向かいにあった三階建ての洋館で暮らしていた安西さんが敵地でみた光景とは?

 * * *

 いま、〈蒋介石〉と云っても、若い人ですぐイメージが浮かぶ人は、めったにいなかろう。けれども昭和十年代には、現在のアメリカ大統領バイデン氏や、前大統領トランプ氏ほどには、日本でもよく知られていた。但し、同盟国ではなく、敵対国のトップとしてだが。

 横浜正金銀行に勤めていた私の父は、昭和十二年五月に、中国の天津から上海支店に転勤した。一旦、東京へ戻ったあと、五月末に上海に到着、私ども一家は、フランス租界の賈爾業愛路の社宅に入った。三階建ての洋館で、十メートルほどの私道をはさんで、同形の家と向かい合っていた。広い芝生の庭があり、父はよくそこでゴルフの練習をしていた。家の前の私道から公道に出ると、向かい側に広壮な邸があった。それは中華民国の指導者蒋介石の住居だった。

 私道の向かいの家に住むのは、中国の富豪らしい。主人の顔は見たことがないが、十代前半の子供が九人おり、一人一人に乳母がついていた。夕方、入浴するときのさわぎは、見ものだった。九人の子の母である夫人は、若く美しく、優雅な絹の裾の長い旗袍を着て、庭をそぞろ歩いていた。

 当時、小学四年生だった私は、上海居留民団立西部日本尋常小学校に通った。家からはかなり遠く、張という名の運転手の運転で、ナッシュという車で通った。天津では自家用人力車だったのが、上海では自動車になった。学校はたしか、膠州路と昌平路の交わる角にあった。街路樹の青葉の陰の落ちついた学校だった。(ナッシュはアメリカの自動車メーカー。編集部注)

 ところが七月七日、盧溝橋で日中両軍が衝突、戦争が始まった。はからずも私たちは敵国に住むことになってしまったのである。街路ではテロか、ときにピストルの音がした。もし中国人が日本人の家だと気づいて乱入してきたらどうするか。塀一つへだてて、英国人の老夫婦が住んでいた。広い芝生の庭で、よくお茶を飲んでいる姿を見かけた。父はその隣家の塀に梯子を立てかけた。もしもの時は、そちらへ逃げる。但し、両家につきあいはなく、向こうが受け入れてくれるかどうかは、わからない。

 在留邦人は次々に、船で帰国した。しかし、うちは母が妊娠中、しかも臨月だった。私たちは張の運転する車で、バンド(黄浦江西岸の租界地区のこと)にある父の勤め先へ避難することにした。お手伝いのしげやは和服なので、途中、見咎められないよう、私どもの足元にうずくまって隠れた。

 フランス租界の家を守ってくれたのは、ボーイの周だった。まだ家にいたころ、周は私に、「いま蒋介石が来ている」と教えてくれた。蒋介石は中国各地に家があり、転々としている。蒋が上海の邸に来ると、「広東兵が歩哨に立つから、すぐわかる」と云う。その云い方が、私にはふしぎだった。広東人は周にとって、外国人を指しているかのように聞こえた。

 私たちが去ると、周は漢字の表札をローマ字の表札に替えた。こうすれば、欧米人の住居と思われる。こうして守ってくれたのである。

 銀行の二階には、会議室をはさんで十畳ほどの和室が二つあり、一方に私ども一家、もう一方に父の同僚の家族が暮した。食事は毎日、冬瓜だった。

 向こうの家族に私と同年配の男の子がいた。部屋に石造りのベランダがあり、私たちは退屈なので、よくベランダへ出て道路を見ていた。銀行の隣はキャセイホテルで、夕方になると続々と車がとまり、イヴニングドレス姿のレディが、ホテルへ入って行った。我々日本人との差異に驚き、さびしかった。

 ある時、たまたま隣の少年が下を見ていると、道路へ出てきた日本の新聞記者を中国人が取りかこみ、殴り殺した。少年は精神に異常を来たしたという。帰国後、治ったと聞いた。

 八月十日、母が産気づいた。バケツ一杯の大出血で、ガーデンブリッジの向こうの日本人街から、かかりつけの医者に来てもらい、辛うじて一命を取り留めた。妹も無事に生まれた。翌日、ガーデンブリッジは閉鎖された。一日違いで母は救われた。

 そのころ、中国軍の飛行機が飛来して、空襲が始まった。しかし周辺には欧米人もいるので、ほどなくやんだ。やがて「日軍百万上陸」のアドバルーンが上った。在留邦人は船便で続々と帰国したが、母の体調がよくないので、私どもは動けなかった。しかし、日々、危険が迫るとみて、父は家族を帰国させることにした。父を残して帰るかと思うと、悲しかった。

 母は歩くのもやっとだった。私たちは張の車で埠頭に行ったが、そこを敵機に機銃掃射された。倉庫の陰に隠れてかろうじて助かったが、乗船が開始され、子供をぞろぞろ連れた私ども家族を見て、事務長は、「いままでどこに隠れていたのですか」と呆れていたものだ。ようやく乗船したのもつかの間、海上が危険とあって私どもは下船させられた。翌日、連絡があったが、母の体調が悪く、私どもは乗らなかった。その船は出港してほどなく揚子江で攻撃され、沈没した。多くの犠牲者を出したという。

 ようやく次の船に乗ることができた。船は泥濘色の黄浦江を下って、呉淞から揚子江に出る。それは、海かと思えるほど広かった。

 船は無事に長崎へ着いた。

 そこから神戸を経て東京の西巣鴨で暮らすことになったが、しょせんは一時避難の身である。上海が落ちついた翌年四月には、家族も戻った。

 父はやはり、蒋介石の邸に近い家は危険と見たのか、ガーデンブリッジの向こう側の共同租界に移ることにした。日本人の多く住む虹口の施高塔路で、後で知ったが、作家の生島治郎さんも、並びの家に住んでいたという。ついでに書くと、作家の林京子さんもそのころ、上海にいたとわかり、後年、二人でその地を訪ねた。

 戦火がやんだとは云え、私ども一家の戻った上海は、変貌していた。街のあちこちに土嚢が積まれ、銃剣を構えた兵士が立っている。もう一つ、目につくのが、「〇〇上等兵戦死の地」などと書かれた白木の標識だった。

 西部小学校も、東亜同文書院という大学のキャンパスに移っていた。

 引っ越してからは、湯恩路と斐倫路の角にある中部小学校に通った。

 中部小学校と云っても、正式の校舎ではなく、民家に仮住まいである。それも、ひどく粗末な家だった。云ってみれば納屋のような建物で、ドアの開け閉めのたびに、ガタガタと音がする。それでも、学校に通えるだけ、ありがたいと思わなければいけないのだろうと、子供心にわかってはいたが、西部小学校に通っていたころを、なつかしく思い出した。

 五年二組に編入された。張の車で通った。すぐには友だちもできず、本ばかり読んでいた。田河水泡のマンガ「のらくろ」を卒業、吉屋信子の少女小説よりも、佐藤紅緑の少年小説のほうがおもしろかった。モーパッサンの「女の一生」や、フローベールの「ボヴァリー夫人」を読んだが、魅せられたのはスタンダールだった。トーマス・マンの「ブッデンブロオク一家」は、ドイツに住んでいただけに、とりわけ好きだった。

 父はその後、満州国の営口に転勤した。同じ中国大陸とは思えないほど、閑静な街だった。英国がかかわっただけに、どこかしゃれていた。私は五年生で、営口尋常小学校に通った。中国では、クラスに朝鮮の人がいたが、満州では別の学校だった。

 六年生で青島に移った。ここはかつてドイツの租借地で、いかにも明るくモダンだった。

 そのころ蒋介石は、軍事委員長から国民党総裁に、副総裁に汪兆銘が就任。日本軍は徐州や広東、漢口に進軍という状態だったが、青島はおだやかだった。たまに日本軍が、私の通っていた青島第二日本尋常小学校に宿泊する。翌日はもう姿は見えないが、ゴムのサックが校庭に沢山、落ちており、友だちと「なんだろう」と首をかしげた。

 夜、靴音が聞こえる。窓から見ると、銃をかついだ日本兵が、隊列を組んで行進して行く。奥地の戦場へ向かうのであろう。なにか胸を締めつけられるように苦しく、悲しかった。

 父の同窓生や同僚の子息が応召して大陸へ渡り、休暇に訪ねてくる。みな若く明るかったが、これも前途を考えると、心が暗くなった。

 あのころから八十余年、日本も変わったが、中国も変わった。

 天津にいたころ、日曜日は日本租界からイギリス租界やフランス租界へ遊びに行く。「キッスリン」という喫茶店で食べるホット・ドッグやチョコレート・パフェが楽しみだった。川島芳子が軍服を着て現れることもあった。

 途中、川のほとりの土堤を歩く。すると、ボール箱に棄てられた乳児の死体を見た。母があわてて、手で私の眼をふさいだ。

 道ばたで無気力に寝そべっている中国人を見ることも、珍しくなかった。

 現在の中国は、日に日に変わっていくように見える。最近の中国には行っていないが、街も人も、かつて見たのとは大いに変わっているにちがいない。

 ベルリンでは、ヒトラーを見たが、中国では、近くに住んでいながら、蒋介石を見かけることはなかった。彼も台湾で亡くなった。毀誉褒貶あろうが、一世の雄だった時代もあろう。一度、顔を見ておきたかった、という気が、しないでもない。

新潮社 波
2021年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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