フェミニズムを正しく理解するために、知っておきたいその歴史 『日本のフェミニズム―150年の人と思想―』試し読み

試し読み

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

 近年、「フェミニズム」は文学界でも一大ムーブメントを巻き起こしています。
 あらゆる意見・論考が飛び交う中で、フェミニズムを正しく理解するためには、まずその歴史を知る必要があるのではないでしょうか。
 今回紹介する一冊は、今年急逝した女性学のパイオニア・井上輝子さん、最後のメッセージともいえる『日本のフェミニズム』。明治維新後150年の日本のフェミニズムの歴史を、主要な人物や思想に焦点を当てながら、一貫した視点で書き下ろした一冊のPart1 第II章 II─2を公開します。

Part1 日本のフェミニズム その1 1868~1970
第II章 日本国憲法による男女平等保障の下で
II─2 働く女性の保護と平等

●労働基準法の成立と労働省婦人少年局の発足 

 日本国憲法第27条によって,はじめて女性も,勤労の権利と義務を保障された。戦前にも女性は働いてはいたが,就職も退職も戸主の指示に従ってなされたし,雇い主も男性労働者も,女性を一人前の労働者として待遇してこなかった(I─7参照)。勤労権(=労働権)の獲得は,参政権の獲得と並ぶ,戦後の女性解放の主要な成果といえよう。女性の労働権を具体的に示した法律が「労働基準法」であり,これを根拠法として女性労働政策を推進したのが,労働省婦人少年局である。
 労働基準法は,いわゆる労働3法の1つとして,「労働組合法」(1945年),「労働関係調整法」(1946年)に続いて,1947(昭和22)年に制定された。この法律の制定過程については,豊田真穂による詳しい研究がある。豊田によれば,GHQは,戦前日本の資本主義が,家父長制的な労使関係によるダンピングによって,国際競争力を発揮していたとの認識から,女性労働者や年少労働者の保護の立法化を企図し,早くから準備を開始した。一方,日本政府の側も,GHQの方針に加えて,戦後活発化した労働運動からの圧力もあり,戦前の工場法等に代わる新しい労働保護法の必要性を認識し,1946年3月に厚生省労政局に労働保護課を設置し,労働基準法の起草にとりかかった。
 GHQがアメリカから労働問題の専門家を招聘して設置した労働諮問委員会が出した基本的な方針に基づいて,日本の厚生省担当者が条文案を起草。それをもとに,GHQと労政局労働保護課とが逐条ごとに検討・交渉を重ねて法案の原案が起草された後,日本初の公聴会を経て,旧憲法下最後の帝国議会で1947(昭和22)年4月7日に成立・公布されることになった。
 労働基準法によって,戦前には1日11時間までとされていた労働時間を1日8時間とするなど,日本の労働者の労働条件は画期的に改善された。とくに年少労働者と女性労働者については,深夜(午後10時から午前5時まで)業の禁止,危険有害業務禁止,坑内労働禁止などの保護を定めた。広い意味での母性保護として,月3日の生理休暇,産前6週間,産後8週間の休暇が認められることになった。また,「女性であることを理由として,賃金について,男性と差別的取扱いをしてはならない」(第4条)として,「男女同一賃金」の原則も掲げられるなど,男女労働者の平等待遇も,一応視野に入れた労働政策の基本方針が立法化されたのである。
 1947(昭和22)年9月1日,労働基準法が施行されると同時に,労働省が新設され,婦人少年局も発足した。婦人少年局の設置をめぐっても,多くの錯綜した議論があった。1つは,労働問題だけでなく女性の健康と福祉,成人教育等,幅広い分野の女性政策を取り扱う婦人局をつくるのか,それとも女性政策の要である労働問題に力点をおくべきなのかという論点である。前者はGHQのウィードと,社会党婦人部の加藤シヅエ,赤松常子らの主張であり,後者は
スタンダーをはじめとするGHQ労働課や,当時厚生省労働課にいた谷野せつ(1903~99)らの主張であった。結局,GHQ上層部には「女性ブロックの結成」を警戒する声もあり,婦人局構想は却下された。
 労働省の設置に消極的だった第1次吉田内閣に代わって,1947(昭和22)年6月に社会党の片山哲を首班とする内閣ができ,労働省の設置が確定し,この省に婦人少年局をおくことが決定した。
 なお,女性と年少者を一緒の局で扱うことには,社会党婦人部を中心に反対意見が出された。しかし,労働者一般として語られる成年男性労働者と違い,女性を年少者と同様,「身体脆弱・意志薄弱」な存在とみなす点で,GHQ担当者も,日本の政府や男性組合幹部たちも一致していた。またI─7で示したように,戦前期以来,女性労働者には,年少者の割合が多かったという現実も影響したのだろう。女性と年少者をセットとする婦人少年局案に落ち着いた。
 このような紆余曲折を経て,1947(昭和22)年9月1日,労働省婦人少年局が発足した。局長人事では,社会主義婦人論の論客として知られた山川菊栄(I─4,7,Part2─1参照)に白羽の矢が立った。日本の中央官庁で初の女性局長が誕生したわけである。以後,1951年6月に退任するまでの3年半,山川は,初代婦人少年局長として,女性労働行政の基礎づくりを担った。

●婦人少年局の活動

 山川菊栄は,アメリカの女性労働行政に関心と知識をもってはいたものの,行政職に就くのははじめてであり,かつ「社会運動の延長上で」局長職を引き受けたとも発言しており,官僚の世界では異端視される,型破りな振る舞いが多かった。その典型例は,地方職員室の室長に全員,女性を採用したことである。
 1948(昭和23)年5月,婦人少年局の方針を全国一律に進めるための直轄機関として地方職員室(1952年8月,婦人少年室と改称)が設けられることになり,人事の決定を急いだGHQは,各県に職員の適任者を推薦するよう通達したが,挙がってくるのは男性ばかりであった。山川は,それらをすべて退けて,自ら各地に出かけて,女性を探し出して,室長に据えたのである。戦後すぐに,「女性の解放は女性の手で」と呼びかけていた山川らしい英断であった。他の省庁はもちろん,労働省の他部局の職員も,国家公務員といえばほぼ全員が男性だった時代に,婦人少年局だけは,婦人労働課長に谷野せつ,婦人課長に新妻イトと,3名の課長中2名が女性であり,職員もほとんどが女性で占められており,異彩を放った。
 婦人少年局がもっとも力を入れた活動は,実態調査と啓発活動であった。まず,調査については,調査項目や調査方法等を,GHQの担当者から具体的に学びつつ,本庁の指示の下,各地方職員室の職員たちが,製糸業や紡績産業に始まり,「売春」の実態調査まで,女性の働く現場に出かけて精力的に行った。調査する職員たちは,使命感に燃えて,現場に何度も足を運び,使用者側の圧力等をはねのけて,できるだけ女性の声を聞き取ることに心がけたことが,職員たちの苦労話や証言から読み取れる。その結果は,膨大な調査報
告書として残されている。
 また,1949(昭和24)年に山川局長は,政府関係機関に,男女別の統計をつくるよう要請した。それまでの政府統計(労働関係を除く)には,男女別のデータがなかったが,これ以後,男女別統計(今でいうジェンダー統計)が開始されたことは特筆に値しよう。
 女性労働者の活動を後押しする啓発活動も,盛んに行われた。ポスターやリーフレット,紙芝居等,さまざまな方法を駆使して,討論の仕方や組合のつくり方のイロハを伝えた。また,「男女同じ仕事に同じ賃金を」「家庭から,職場から,封建性をなくしましょう!」など,「婦人の日」「婦人週間」のスローガンまで,手を替え品を替え,多様な啓発活動を行った。リーフレットやポスターは,組合活動家たちから歓迎されたが,労働省内では「金食い虫」とし
て評判が悪かったようだ。
 なお,上記のように,婦人少年局の女性職員(とくに地方職員室)は,当初シロウトが多かったが,しだいに大学出の人材も集まってくるようになった。国家公務員をめざす女性たちにとって,女性を採用してくれるほとんど唯一の省庁として,婦人少年局があったからだ。労働省婦人少年局には,女性の地位向上に本気で取り組む,フェミニスト官僚の気風が,長く引き継がれたようだ。

●戦後の婦人(女性)労働運動

 1945(昭和20)年12月に労働組合法が公布され,GHQが後押ししたこともあって,敗戦後,労働組合運動が盛んになり,女性労働運動も活発化した。翌46年には,戦前からの日本労働総同盟の後身として「日本労働組合総同盟」(総同盟)が再出発したのに続いて,新しく全「日本産業別労働組合会議」(産別)が結成。さらに,1950年には,総同盟中の左派の諸組合が参加して,日本労働組合総評議会(総評)が設立され,戦後日本における最大の全国的な労働組合の中央組織となった。
 敗戦時にはゼロに近かった労働組合が,1946(昭和21)年8月には労働組合数1万2600,組合員数396万人,うち女性96万人に急増し,労働組合婦人部を通じての活動も盛んになる。戦後の婦人労働運動は,大きく分けて,解雇反対,男女差別撤廃,身体保護を基礎とする人権擁護の3種類の要求運動として展開された。
 第1の労働権を守る,解雇反対運動の典型例は,「日本国有鉄道労働組合」(国労)婦人部の活動である。1946年に,国労そして婦人部も結成されたが,結成直後に,年少者7万5000人,女性5万人の大量首切り方針が発表された。復員兵や海外からの引揚者の雇用の受け皿として鉄道が期待されたからである。戦時中に戦地に派遣された男性に代わって,事務員のほか,鉄道現場で電話係,電信係,看護婦,事務員,駅手,雑務手,出札係,改札係,踏切警手,技工などは女性が担っており,国鉄には約10万人の女性職員がいたといわれるが,その半数が一挙に解雇されることになったわけである。さらに1949年には,男女含めて9万5000人(うち女性3万人)の人員整理が発表されるなどして,女性の数は,国鉄全職員の1割にも満たなくなった。これに対して国労婦人部は,他の女性団体と連携して反対運動を展開するが,男性の失業解消のために,「婦人よ,家庭に帰れ」政策を強行する政府によって,押し切られた。他の電鉄会社も同様で,とくに女性にねらいを定めた人員整理が実施された。その後数十年間,鉄道現場の職員といえば,男性という時代が続くことになる。
 第2の男女差別撤廃運動で,戦後早々に成果を上げた事例として,「日本教職員組合」(日教組)婦人部の活動がある。教職は,戦前以来,数少ない女性の専門職の1つであったが,女性教員の地位は低く,賃金は男性の約半分,学校内での発言権もなかったという。女性教員の会がすでに戦前からあったが,女性教員の質の向上や,女子教育の振興を目的にする会で,女性教員自身の待遇問題などへの関心は薄かった。しかし,戦後,GHQが学校教育の民主化の一環として教員組合の結成を促す中で,各地で教員組合が組織されるや,女性教員たちは,生理休暇や産前産後休暇の要求,ならびに男女賃金格差の撤廃を求めて,いち早く立ち上がった。
 1947(昭和22)年6月に全国組織として「日教組」が結成された直後に婦人部も結成。すでに東京都の教員組合婦人部で実績のある高田なほ子(1905~91)が,初代婦人部長に就任した。
 1948(昭和23)年1月,「東京都教職員組合」(都教組)婦人部が,女性教員にとって長年の念願であった男女同一賃金を,東京都教育局長との交渉の末に獲得。以後1952年までに,42府県で男女同一賃金制度が導入された。最近では,男女差別のない職場として教員職を選ぶ女性も多いが,教員の世界が他の職場に比して男女間の待遇格差が少ないのは,戦後の女性教員たちによる熱心な活動の積み重ねの結果であった。
 第3の人権擁護運動の事例として,1954(昭和29)年に起きた近江絹糸争議がある。I─7で,戦前日本の輸出産業の主力であった繊維産業を,「女工」たちが中心的に担ってきたことを記した。戦後になると女性の職域が広がり多様化したものの,繊維産業で働く女性は相変わらず多く,1951年には63万人,1956年には69万人を数えた。当時,紡績会社は東洋紡績,鐘紡,大日本紡績等10社が大手とされていたが,近江絹糸は大手10社に急追する,巨大な新興紡績会社であった。労働基準法施行後にもかかわらず,この会社の内実は戦前の「女工哀史」そのままで,女性労働者,しかも18歳未満の年少労働者が多く,個人生活の自由を拘束された寄宿舎生活の中で,低賃金・長時間労働を強いられていた。

 会社からの苛酷な労務管理に反対する大阪本社の従業員たちが新しい組合を結成し,1954(昭和29)年6月,会社側に,組合の承認,残業手当の支給,賃金体系の確立,仏教の強制反対,結婚・外出の自由,信書の開封・私物検査の停止などを要求したが,会社側が拒否したため,無期限ストライキに突入。これに続いて,岸和田工場,彦根工場,富士宮工場等,各工場で組合結成ならびにストライキが広がった。全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟,現在のゼンセン同盟)が全面的支援に入る一方で,男女組合員たちと会社側暴力団との対決等もあり,労働省の中央労働委員会が職権斡旋するなど,紆余曲折の末,12月に労働組合側が勝利する形でようやく妥結した。この争議は,労働者の人権を侵害する労務管理に抵抗した闘争として,「人権争議」と呼ばれている。
 労働権を守る,女性差別撤廃,身体を守るの3つの要求は,その後も長い間,女性労働運動の課題として引き継がれていく。ここで例に挙げた国労,日教組,全繊同盟は,いずれも全専売,全電通,全逓などとともに,総評の結成に加わり,それぞれの婦人部長は,1953(昭和28)年からの総評婦人協議会,58年以来の婦人対策部の主要メンバーとして,その後の女性労働運動を牽引していく。1956年,総評婦人協議会は,婦人月間運動(II─6参照)において「はたらく婦人の中央集会」を開催した。この集会は以後,総評が解散する1989年まで毎年開催されることになる。

(続きは本書でお楽しみください。)

有斐閣
2022年1月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

株式会社有斐閣のご案内

明治10年創業の出版社です。法学、経済学、人文科学一般に関する書籍を発行しています。定期刊行物は、年版の『六法全書』、『ポケット六法』、『有斐閣判例六法』、『有斐閣判例六法Professional』などを、定期雑誌では『ジュリスト』、『法学教室』を刊行しています。